、それは殆ど何もない。失う所が多くて得る所が絶無のようにしか百姓弥之助には思われない。
二十一
それは成程、弥之助が子供の時分――に比べると、外形の生活の変化は、何かと異常なものが無いではない。
今から丁度四十年の昔、百姓弥之助が、まだ十四歳の少年の頃、東京の本郷から十三里の道を、徒歩で立ち帰ったことがある、初夏の頃であったと思うが、紺飛白《こんがすり》の筒袖を着て、古い半靴を穿《は》いて東京を出て来た、湯島天神の石段を上りきって、第二の故郷の東京から第一の故郷へ帰る心持、丁度、唐詩にある「卻望并州是故郷」の感じで見返ったことを覚えている、それから今の高円寺荻窪辺、所謂《いわゆる》杉並村あたりから、北多摩の小平《こだいら》村附近へ来ると、靴ずれがし出して来たので、その半靴を脱いで杖の先きにブラ下げて、肩にかついで歩いたが、そうすると村の子供連が弥之助の前後に群がり集って、
「あれ、靴!」
「あれ、靴!」
と云って、驚異しながら、ぞろぞろついて来たものだ。今は、その辺は、もう文化住宅が軒を並べて、中央線利用のインテリ君やサラ氏が東京の中心へ毎日通勤するようになった。
弥之助の植民地のある本村は、前に云う通り東京の中心地から僅かに十二三里の地点だが、弥之助の小学校時代には、自転車というものが一年のうち数える程しか通らず、たまたまそれが校門の外を通過することでもあろうものなら、
「それ、自転車!」
と云って、学童が遊戯を抛って校門の杭《くい》に首を突き並べて騒いだものだ、今日では、いかなる貧農でも自転車の一輛や二輛備えていない家は無い。
交通機関について云って見ると、今の中央線が甲武鉄道と云って、飯田町から八王子までしか開通していなかった。
そこで、この地方の人は汽車の便を借りて他方へ行くには、甲武線の一駅立川まで徒歩か或いは人力車によらなければならなかった。
甲武線――飯田町八王子間の開通が明治二十二年八月ということであって、その沿線立川駅から分岐して青梅《おうめ》鉄道という軽便が出来たのは明治二十七年の十一月ということである、丁度日清戦争の最中であって、百姓弥之助はその時漸く十歳であった。日清戦争というものが如何に当時の少国民の愛国心を鼓舞したかということは別の思い出になるが、鉄道がいよいよこの村へ引かれて来るというこの地方の交通革命時代
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