武州喜多院
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)目醒《めざ》ましい
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)風※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]
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これも五月のはじめ、郊外の新緑にひたろうと、ブラリ寓を出でて、西武線の下井草までバス、あれから今日の半日を伸せるだけのして見ようと駅で掲示を見る、この線の終点は川越駅になっている、発駅は高田馬場である、そこで六十何銭かを投じて川越駅までの切符を求めた。
特に川越を目的とする何等の理由は無かった、全く出来心ではあったし、川越という処も一両度訪れたことはあるのだがどうも、東京もよりでは、すでに歩くだけは歩きつくしているような我身だから、時にはおさらいをして見るより外はないという事情もある。
川越といえば、今ではお薯の名所となっているが、近世史上から云えば、なかなか由緒のある土地である、武蔵国では江戸を除いては一二と云う都会であったのだ、小田原北条以来勇武の歴史もあるし、徳川になっても有力な大名が封ぜられている、併し、名所及び人物としての川越は、今では喜多院及び天海僧正にとどめを差すのである、そこで、兎に角、喜多院を目ざして、そうしてその主目的は武蔵野の新緑に酔わんとするのにあったのだ。
喜多院と云っても、はじめてではない、先年、花の盛りにも来て見たことはあるが、今度はその時見残した国宝の職人図だの、岩佐勝以の三十六歌仙だの、そんなものを見せてもらうことが出来れば幸だと思った。
入間川までは電車も相当混む、今は花時だから、それから先きが存外長いと思った、川越駅で下車して見る、別に昔と比べて目醒《めざ》ましい発展をしているとも思われない、下車すると大宮行きのバスがある、それへ乗り込んで七八丁、喜多院前で下車する、境内はだだっ広くしまりがない、本堂も大きいには大きいがかなり汚ない、それから宝物を見せて貰えまいかと頼むと庫裡へおいでなさいという、庫裡へ行って見たが誰も居ない、そのままずんずん上りこんで奥の方へ行くと奥庭に大きな桜の老木がある、ハヽアこれだな! と思った、鳴雪の句に、
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南無大師三百年の桜かな
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という句があったのを覚えているが、先年来た時本堂の前庭の桜は花盛りであったが、三百年に該当するような大木はついぞ見出されなかったがここへ来て見てはじめてそれと分った、立札を見ると、
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三代将軍家光お手植桜
樹高――三十二尺、周囲――八尺、樹齢――二百九十年
寛永十六年再築の時植付
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とある、それから書院を廻って見ると三代将軍誕生の間というのがある、ハテ、家光公はここで生れたのかしら、どうも家光が川越で生れたという説は聞かない、そこで思案にくれていると、髪の毛を分けた若い書生さんが出て来たからその人を捕えて聞くと、この書院なるものがその以前江戸城内のもみじ山にあったのをそっくりそのまま当院へ寄付されたということで、それから今須弥壇になっている一間を通してあちらの間は春日局がお産の祷りをした間であると伝えられ、それからまた国松方の間者として入り込んでいた侍女を差し殺したという伝説もある。
というようなことを教えてくれた、そう云われて見るとなるほどこの建築は普通寺院の書院とはちがってどこぞ古城の櫓の中を見るような気持がする、果して三代将軍が生れたもみじ山御殿そのものでありとすれば徳川初期の有数な建築史料の一つであるが、うち見た処如何にも質素で柱なども太《はなはだ》しく奢った点は更に見えない、これが天下の大将軍の城内の御殿かと疑われるほどだ、史料建築としてはもう一吟味して見なければならないが、印象としては徳川初期の三河武士の質素さをよく表わしたものと云ってよろしい。
それから、種々の宝物がある、家康の武器だの日用食器だのというものが相当にあるが、そのうち一番眼についたのは家康着用という、麻の小紋の着物だ、これを見ると丈が短く肥った色の黒い、大庄屋の親分といったような家康の風※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》が眼の前にちらついて来る。
それから三代将軍以来この寺へは代々将軍が太刀を納めることになっているが、家光は「友成」で、これは今九段の遊就館に陳列してあるそうだ、それからまた有名な国宝の職人絵づくしは今報知新聞で催している国宝展覧会に貸してあるとのこと、それでは岩佐勝以の三十六歌仙を拝観は出来ないかというと「あれは当院のものではありません、この隣りの東照宮の所蔵品です」とのこと、喜多院の岩佐勝以とばかり耳
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