とを追うて仔細に吟味をして見る。
 不破氏は最初の姿勢で、ほとんど膝行頓首の体制のままですから、いま大久保が大和錦と引合わせている彩色の図面が何物だかわかりません。わかろうとすることが重大なる失礼ででもあるかのように、恐れ慎んで面を上げないのでありますが、品川弥二郎は甚《はなは》だ無遠慮で、果ては彩色の絵図面を横手に持って、大久保の繰りひろげた大和錦を片手で引張って、押しつけるようにして較《くら》べて見るものですから、側面から見ると、その彩色の絵図面が何物であるかがよくわかるのであります。
 つまり、それは錦の御旗《みはた》を描いたもので、大和錦はこの御旗の地模様をつくり、ただ、図面と異なるのは、それに金銀の日月が打ってあるのと、ないのとの差であります。
「いや、これでよろしい、寸分相違がない、見事な出来でござります」
と大久保が保証すると、品川も頷《うなず》く。三位も満足の体《てい》。その時に大久保が改めて、
「では商人、この方式によってしかるべく頼むぞ、恐れ多き事ゆえに他言は固く無用、万一、外間に洩《も》るる時は、その方の命はなきものと覚悟せよ。この絵図面もその方を信じて手渡す、これによって、日月章の錦旗|四旒《しりゅう》、菊花章の紅白の旗おのおの十旒を製して薩州屋敷に納めるよう――世間へは、薩州家の重役が国への土産《みやげ》の女帯地を求めるのだと申して置け」
「委細、心得ました、必ずともに御信用に反《そむ》きませぬ、万一、手ぬかりを生じましたその節は、この痩首はなきものと、疾《と》うに覚悟をきめておりまする」
「町人にしては惜しい度胸、昔の天野屋に優るとも劣らず、では、しかと申しつけたぞ」
「有難き仕合せにござりまする」
 ここで、不破の関守氏はまたも頓首膝行の形で、三傑の御前を辞して、次の間に辷《すべ》り出て、三太夫にまで鞠躬如《きっきゅうじょ》としてまかりさがってしまいました。

         五十八

 不破氏が、ここまで食い入って、ここまで信用を掴《つか》み得たという手腕のほどは甚《はなは》だ驚歎すべきことでありますが、ここに於て、東西に二つの錦旗の問題が隠見して来たことは、この小説の作意ではありません。
 すなわち、上野の東叡山輪王寺御所蔵の錦旗を盗まんとする不逞《ふてい》の徒が存在するらしいことと、ここでは岩倉三位合意の下に、玉松操《たままつみさお》に製作せしめた錦旗の図面によって、薩摩と長州の傑物が二人、町人にその製作を命ぜんとしていることであります。これは作意ではなく、史実であり、明白なる記録でありますが、錦旗そのものも、いまだ名分を備えざる間は、ただ一個の織物に過ぎませんから、誰がどう扱おうとも、さして問題にならない分のことです。
 さても、件《くだん》の密談が終って、洛北岩倉村から、またも馬で帰る両士の馬上ながらの会話を聞いていると、次のようなものであります。まず品川弥二郎が言いました、
「岩倉三位には恐れ入ったねえ。実を言うと、わたしは日頃あなたから、岩倉三位はエライエライと言われるものだから、よっぽどの人物と思っていましたがねえ、今日はじめて、あの中庭の柴戸から、ひょっこり姿を現わしたその人を見て、非常な幻滅を感じましたよ、あの通り、背は低いし、色は黒い――背は低く、色は黒くても、人品とか、男ぶりとか立勝《たちまさ》ったものがあればまだしもだが、ひょっこり着流しで、鍬《くわ》を下げて面《かお》を出したところを見て、非常な失望を感じましたよ、こんな風采の揚らない男に、いったいどれだけのエラさが隠れているのか、こんな人物を、エライエライと担ぎ上げ、持ち上げるのは、大久保さんにも似合わないことだ、お公卿《くげ》さんに免じてのお追従《ついしょう》だろう、本来、お公卿さんなぞに、そんなにエライ人物が有りようはずはない、位が高い、伝統が物を言うから、人があんまり持ち上げ過ぎる、というよりは、天下の志士とかなんとか威張ってみても、所詮|地下《じげ》の軽輩の眼には位負けがする、そうでなければ、仕事の都合上、持ち上げて置いて利用する程度のものにしか考えられなかった、岩倉とて何ほどのことがあろうと、あの瞬間に、わしは一種の軽蔑の念をさえ持ちましたがな、あのそれ、庭に手ずから築いた土饅頭《どまんじゅう》を指して、今ここへ人間の生腕を埋めたところだ、誰かいたずら者めが、賀川肇の腕を切って来て、三宝にのせて玄関へ置きばなしにして行ったから、それを今ここへ埋めたところだと、平然として談《かた》っているあの度胸には、実際驚きましたなあ、当時、豪傑といわれる武家の大名のうちにも、あれだけの度胸を持った奴はありますまい、刺客を前にしてあの底の知れない図々しさを持った者は、血の雨をくぐって来た浪士のうちにも、あんまり多くはない、お公卿さんにも、あれだけの度胸があるものかと、僕はまずそれで参ったよ。さて、通されて密談ということになって、三位から討幕の秘計を諄々《じゅんじゅん》と聞かされてみると、今度はその内容に於て、実際恐れ入った、我々の考えている以上の周密と、思っている以上の大胆と、百折不撓《ひゃくせつふとう》の決心を持っておられるには驚いた。日本はじまって以来の政治上の大改革を行う、この精神と、方法と、手段と、順序を、大所から細微に至るまで、ああも大胆に、且つ周到に包蔵しているあの頭は大したもので、そう思って、僕はあの人の頭の形をつくづくと見直すと、どうもその形からして尋常人の頭ではない、あれは大したものですぜ、お公卿さんの冠を取った方がかえって頭が大きくなる、あれだけの頭は今日の日本にありませんなあ。先頃《せんころ》まで三奸《さんかん》の随一に数えられたが、賢の賢たる所以《ゆえん》も備わるが、奸の奸たる毒素も持たざるなし、朝《あした》には公武の合体を策し、夕《ゆうべ》には薩長の志士と交るといえども、表裏反覆の娼婦の態を学ぶものではない、幕府をも、薩長をも呑んでかかっている腹がありますぜ。古来のお公卿さんは、位ばっかり高くて実力がないから、時の日和《ひより》で、あっちへべったり、こっちへべったり、木曾が出頭すれば木曾に、義経が迫れば義経に、頼朝が怒れば頼朝に依存して、而《しこう》して、その間の鞘《さや》を取って小策を弄《ろう》するのが即ち公卿の身上と見てかかると、岩倉三位に於て失敗する、当時、堂上お公卿さんにも出色の人物は多いが、岩倉三位に比べると同日の談ではない、江戸に依存せずとも、薩長を操縦せずとも、立派に大業を成せる人だと僕は思いました。大久保さん、おたがいにしっかりしないと、薩摩も、長州も、岩倉三位に食われてしまいますぜ」
 品川弥二郎は、はじめて会った岩倉三位に就いての印象を、大久保市蔵に向って右のように物語りつつ、やがて京の町に入り、薩州邸へと帰着するかと思うと、上京寺町通り裏、石薬師門外のあたりで二人の姿が消えました。これより先、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵と、宇治山田の米友も、件《くだん》の如き首《くび》っ枷《かせ》の芸当を以て京の町外れまで一散に走りましたが、そこで、米友は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の肩から下り、がんりき[#「がんりき」に傍点]は脚絆《きゃはん》の紐《ひも》を結び直したけれども、二人の口頭には別になんらの人物論も起りません。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、あんまりばかばかしいから、ドコぞで一杯飲んで行くと言って、米友と立別れ、米友は蹴上《けあげ》、日岡と来た通りの道を辿《たど》って山科へ帰りました。

         五十九

 その夜のこと、昼さえも静かな岩倉谷の夜もいたく更け渡る頃、たった一人の白衣《びゃくえ》の行者が、覆面をして両刀を落し差し、杖を携えて、飄々浪々《ひょうひょうろうろう》としてこの岩倉谷に入り込みました。
 こう書き出してくると、夜前、ああいう光景を描き出した場所柄、またもや一層の妖気魔気が影を追うて来なければならないのですが、事がらはそれに反対で、妖気魔気どころか、気の利《き》いた化け物は、面をそむけて引込むが当然なのです。
 昭和十六年五月十日の東京朝日新聞の映画欄の記者でさえも、こういうことを書いている――
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「が、元来、かういふ虚無的なやうな、感傷的のやうな嫌味ツたらしい浪人は、日本映画の昔から好物とするもので、現代人の心理を詰めこんだつもりで、深刻がつてゐるものの、実は、すこぶる浅薄陳腐といふべし……」
[#ここで字下げ終わり]
といったようなわけで、この浅薄陳腐なる嫌味ったらしい好みが、恥を知らない日本のうつし絵の食い物となっているも久しいものだ。今から三十年前、武州多摩川の上流から颯爽《さっそう》と現われた、これが原生動物と覚しき存在は、こんな無恥低劣な姿ではなかったはず。
 何の因果か、この原生動物と覚しきが、三十年の昔、姿を現わして以来、この形のうつしが一代の流行を極めて、出るわ、出るわ、頭巾をかぶせたり、五分月代《ごぶさかやき》を生やさせたり、黒の紋附を着流させたり、朝日映画子のいわゆる浅薄陳腐な嫌味ったらしい化け物が、これでもか、これでもかと、凄くもない目をむき出し、切れもしない刀を振り廻して見得《みえ》を切った、その嫌味ったらしい浅薄陳腐な化け物が、三十年の今日、箱根以東の大江戸の巷《ちまた》から完全に姿を消してはいない。朝日のきらきらする市上にまで戸惑いをしている。
 こいつらは、人の感情を保護するということを知らない、いわんや向上せしむることをや。模倣が程度のものであることも知らない、剽窃《ひょうせつ》が盗賊の親類であることも知らない。どだい、こういう恥を知らぬ化け物国に、大きな精霊の生れた例《ためし》があるか。
 伝うるところによると、机竜之助なるものは、もはや疾《と》うの昔に死んでいるそうだ。その生命は亡き者の数に入っているのだそうだ。彼の生命を奪ったものとしての最も有力なる嫌疑者は、暴女王のお銀様が第一に数えられる。少なくとも胆吹御殿のあの地下、無間《むけん》の底につづく密室の中で、病後の竜之助なるものを完全に絞殺して、その地下底深く投げ落して秘密に葬ったという説を、まことしやかに言い触らして歩く者もある。
 それにもかかわらず、その以後の活躍に、長浜の浜屋の一間の暗転もあれば、大通寺友の松の下の犬の殺陣もあるし、琵琶の湖上の一夕ぬれ場もある。それら、次から次へ展開さるるは、それはセント・エルモの戯れであって、サブスタンスの存在ではないということを言う者もある。しかし、御当人は、左様な噂を一切見えぬ後目《しりめ》にかけて、山科谷から、島原の色里にまで、影を追うて往年の紅燈緑酒の夢を見て帰ったという消息をもまことしやかに伝える者もある。或いはまた月光霜に氷る夜半、霜よりも寒く、薄《すすき》よりも穂の多い剣の林の中を、名にし負う新撰組、御陵隊が、屍《しかばね》の山、血の河築くその中を、腥《なまぐさ》い風の上を悠々閑々として、白衣の着流しで、ぶらついていたという噂を、見て来たように話す者もある。それが今晩、またも、岩倉谷に現われたといったからとて、誰も本当にする者もない代り、嘘だという者もない。
 前にも言う通り、気の利いたお化けならば、とうに引込むべきはずのところを、かくも性懲《しょうこ》りなくふらつき出すのは、他の好むと好まざるとにかかわらず、白業黒業《びゃくごうこくごう》が三世にわたって糸を引く限り、消さんとしても消ゆるものではあるまい。大久保市蔵が岩倉谷に入ると、事実上、日本の枢軸は震動するのだが、この幽霊がここに姿を現わしたとて、もはや、草間にすだく虫けらも驚かない。

         六十

 夢遊病者としてもまた、虫けらを驚かすことを好まない。さりとて、岩倉三位をたずねて錦旗の製法を検究しようではなし、賀川肇の生腕をそっと掘り返して食おうというのでもなし。
 岩倉三位にも、中御門中納言にも、いっこう用向きのない人、せっかくこの岩倉谷に入って、がんりき[#「が
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