の力を出すほかには、細務に当るの余暇がない。時としては、島めぐりに日を重ねて帰ることさえある。
 いちいち、駒井船長の指揮を仰ぐことの代りに、お松さんに相談すれば、大抵の用は足りる、というところから、お松の地位が、責任と繁忙を加えて来るのはぜひがありません。
 駒井は、お松の才能を見て、得難き人を与えられたることを心ひそかに感謝している。この娘には万事を任せて間違いがないと信じていることは、いつも変らない。異常なる興味と、熱心と、忠実とを以て、自分の身のまわり一切の処理をしてくれる、その勉強ぶりをじっと見ている駒井の眼に、いつか涙のにじむことさえある。
「ああ、この子も娘ざかりなのに、考えてみれば自分は、この娘の未来を無視しているのではないか、自分は自分で趣味に生き、理想に生きて行くのだから、どんな山海万里の涯《はて》に果てようとも厭《いと》うところはないが、考えてみると、それだけの趣味も理想も持たぬ人たちを、強《し》いてこっちの趣味と、理想に引張り込んで、世間並みの希望と快楽を、すべて奪ってしまうにひとしいことになりはしないか、ことに娘ざかりのこの子たちを、今はこうして、自分というものに引きずられて、無我に働いてくれるようなものの、いつか眼がさめて、幻滅の悲しみに泣かすことはないか、眼がさめた時は、もう盛りが過ぎた時で、女の一生が色のあせたものになってしまって、一生を老嬢の淋《さび》しさに泣かすようになった日には、その罪は誰が負う、本来ならば、年頃になったような娘は、早くしかるべき相手を求めて、とにかく一人前に納めてやることが先輩の義務であろうのに、自分はただいい秘書を求め、助手を求め当てたことだけに満足していて、それで済むか、今の忠実を見るにつけ、後の心配をしてやるべき責任は自分にあるが、こうなってみると、世間並みの家庭に納めて、世間並みの肩身を広くさせてやることができない、体《てい》よく、こちらの犠牲として一生を廃《すた》らせてしまうことになるのだ、その点は気の毒に堪えない」
 駒井は、お松の仕事ぶりを見ながら、つくづくそれを感じて、つい、深い感慨に陥ってといきをつくことさえある。今日も、朝のうちから、皆の者は開墾に出て、駒井は研究室で、地図と海図をひろげて調べている、その机の一方で、一心に記録をうつしているお松を、横からながめて、またも、うっとりとその感謝と、悔恨に似た心で満たされて、思わずホッと息をついた時に、ペンを置いて、インキの壺を満たしかかったお松の眼とぴったり合いました。
 駒井もハッとしましたが、お松も思わず胸を轟《とどろ》かせました。
 地図を見つめて研究に耽《ふけ》っておいでになるとばっかり信じきっていた主人が、今までじっとわたしの方を見つめておいでになった。しかも、その眼の中には、解釈のできない深い思いが籠《こも》っていて、ただ研究に疲れたお眼をそらすために、あらぬ方を向いておいでになったものとは思われない。たしかに自分というものに視点を注がれて、じっと思い込んでおいでになったそのお心持は、不意にわたしの眼とかち合ったあの瞬間の狼狽《ろうばい》ぶりでよくわかる。
 お松はその時に、思わず面が真赤になりました。
 今まで、尊敬すべき主人として、二心なく働いていたし、また、こういう御主人の下に働き得ることに、精一杯の満足を捧げていたのですから、いかに接近して、いかに立入ったお仕事の相手をしようとも、自分としては、ちっとも心の動揺を感じたことはなし、また殿様も、女性として、人間として、わたしをごらんなさるほどに人情に近い方ではないから、単に、この中で最も役立つ女という実用一方のお取扱いとのみ信じていたから、そこになんらの隔意というものはありませんでしたが、この時は違いました。
 お松は何の故に、駒井の殿様が、今更あんなにわたしを御注視なすっていらしったか、その心のうちを知るに苦しみました。そうして、その瞬間に、使われ人としての自分でなく、女性としての己《おの》れを発見したものですから、我知らず狼狽して、ホッと上気してしまったこの心持が、自分ながらわからない。恥かしいとは思いましたが、ただ恥かしいでは隠しきれないバツがあって、そこは賢い女ですから、取紛《とりまぎ》らすように心を立て直し、言葉を改めて駒井に向って言いました。
「殿様、御気分でもお悪いのでございますか」
 さし止められている殿様という言葉が、この時、思わず口を突いて出てしまったことは、その心が、昔の思い出に占められていたからです。秘書としてのお松ではなく、処女としてのお松でありました。
「いや、別に気分が悪いことはないが、少し考えさせられることがあってね」
「まあ、お考えあそばすことは、あなた様の始終のお仕事ではございませんか、いまさら考えごとをあそばすと、おっしゃるのがおかしいわ」
と、お松はつい語尾を砕けて言いきって、自分でなんとなく胸を躍《おど》らせる心持を加えたのが、自分でわかりません。
「いや、研究の考えごとと、人情の考えごととは、同じ考えごとでも性質が違うからな」
「考えごとにそんなに幾つもあるものでございますか、人情とは何でございます」
「人情というのは、人間の情合いのことなのだ。学問というのは、情合いをはなれた理性というものです。学問の考えは、深ければ深いほど落着くが、人情の考えというものは、深ければ深いほど乱れてくるものだ」
「では、殿様には、何かお心を乱すような人情の思い出が、お有りあそばしますか」
「有るとも、大有りだ」

「伺いとうございますね」
「言わん方がいいだろう、言えばいや増す思いというものだからな」
「では、わたくしが代って申し上げてみましょうか、お君様のことを、お思い出しになったのでございましょう……」
「うむ……いや、違う、あれはもう忌明《いみあけ》だ、思い出せば不憫《ふびん》と思いやられぬことはないが、いつまでも愛惜《あいじゃく》を追うのは、それ、冥路《よみじ》のさわりというものでな、今では、さっぱりとあきらめている、いまさら思い出して、心を傷《いた》ましむるということもないのだ」
「では、奥方様のことを……」
「いや、あれは愛情がない、権式があるばかりだ、正直に言うと、結婚以前から冷たいもので、今もその通り」
「では、どなたのことを思い出しておいでになったのでございますか」
「実はな、お松どの、君のことを考えて、つい思いに沈んでしまったのだ」
「まあ、勿体《もったい》ない」
と言って、お松がまたも真紅になって、うろたえる心を抑《おさ》えることができないほどです。

         二十五

 ただ単に自分のことを考えていてくれたということは、感謝すべきことであっても、狼狽すべき事柄ではありません。それなのに、お松の狼狽ぶりのあわただしさ。自分ながら、今日に限って、何でこんなにあわてなければならないか、その理由がわかりません。
「お松さん、私は、つくづく君に済まないという考えが、このごろ漸《ようや》く起りました、遅いことでした」
「何をいまさら改まって、そのように仰せられますか、わたくしにはわかりませぬ」
「あなたが忠実に働いてくれればくれるほど済まない、思えば、私は、あなたを忠実な秘書であり、助手であるとしか認めていませんでした、お松どのという存在は、ただ駒井の研究を助けてくれる得難き道具として――道具というのは少し言いすぎかも知れませんが、最も善い意味で、そういう取扱いが当然だという心得のみで、それ以上には考えることもしませんでしたが、今、考えてみると、あなたも女でした」
「何とでも仰せあそばせ」
 お松は、駒井の率直な言いぶりに、挨拶の言葉を見出せなかったのです。駒井は、言葉をつづけて言いました。
「あなたも女です、今ここに女性として、私の親近の一人を見ていますと、その女性は、娘盛りという、人生に二度とない花の時代でした、ああ、それを自分は、ただ自分の助手としてのみ、便利有用なる道具としてのみ認めて、女性として、娘ざかりとしての、あなたというものを見て上げることができなかった、むしろ、その余裕を今日まで持ち得なかったということに、大きな慚愧《ざんき》を感じました、己《おの》れというものに熱中している間に、知らず識《し》らず人を犠牲にしていた大きな罪を、覚らずにはいられません、それを、今という今、痛切に責められたものですから、思わず歎息となりましたのです」
「何をおっしゃいますか、わたくしには聞えませぬ」
とお松も、つとめて冷静を保つ心で駒井の言い分に応対をして、
「女としての私が、お傍に働いてお気に召さぬならば、いつでも引下らせていただきます、微塵お怨《うら》み申し上げる心などはござりませぬ、幸い、わたくし、子供の時から骨折仕事にも慣れておりますから、明日からでも開墾の皆様と御一緒に、草も刈りましょう、水も運びましょう、その方が、わたくしの身にも相応しているに違いありません」
 駒井は、それを押しなだめて申しました、
「そういう意味に取ってもらっては迷惑します、今ここから君に離れられては、君に代るべき人がない、人がないから、やむを得ず君に働いていてもらうのではない、たとえ幾人の適任者がありましょうとも、君を措《お》いて、助けてもらえる人は現在の駒井にはないのです、拙者が済まないと思うのは別の意味ではありません、女性の一人を、女性として扱うことをせずに、単に便利なる使用人として一生を廃《すた》らせてしまうその責任が、この駒井にありはしないか、世が世ならば、そなたのために、よき連合いを求めて、立派な家庭の人として仲立《なかだち》して上げるべきはずなのに、それをせずに、こうして、いい気になって、娘ざかりをあだに過させ、今後とても、そういう希望を以て、君を世に出して上げることが覚束ない、それを思うと、自分の罪に戦《おのの》かずにはいられないのです。人というものは、己《おの》れの理想に熱中していると、知らず識《し》らずその家庭に大きな犠牲を作るものだということを、今ごろ、つくづくと考えさせられた次第なのです。そこで、そなたの身が不憫《ふびん》でならなくなりました、今までは、物としての人を見たのですが、今は人としての女を見たのです、自分の心の弱き部分が綻《ほころ》びて、血を出したようなものなのです、深く気に留めないで下さい」
 物やさしく言う駒井の言葉が、今日はナゼかお松の心を動かすことが深く、いつも、はきはきと答える言葉が、今日はまとまらず、この深甚《しんじん》な、異例の言葉に対して、何と挨拶すべきか、お松はぽっとしてしまいましたが、やがて、卓の上に泣き伏してしまいました。声を揚げて泣いてしまいました。

         二十六

 その時から、駒井甚三郎とお松との間の感情が、平静を失いました。
 お松は、駒井にとって唯一の秘書であり、助手であることは変りはありませんけれども、今までの虚心であることができません。この人に近づくことに、心を置かなければならなくなりました。駒井としては、あの時、言い過ぎたとも思う様子はなく、更に言い足そうとする気配もなく、依然として、威と恩とを備えた主人とし、船長としての態度を保つことに変りはありませんでしたけれど[#「ど」は底本では「で」]も、ひそかに見やるお松の眼には、痛々しいものの映ることを止めることができません。
 威厳の人としてのこの主人に、お松は物の哀れをはじめて見出しました。それは甲州以来の昔の思い出が、今までは人の身の上のようにしか思われなかったものが、今は、わが身の上のような気がしてなりません。
 そうしてみると、あの朋輩《ほうばい》としての不幸薄命なお君さんという女性の運命の絵巻を、ここに再び繰りひろげて、それを哀れなりと思う心が、泉のように甦《よみがえ》って来ました。本当に自分としては、お君さんを気の毒だと思い、できる限りのお世話はしたつもり。またお君さんの方でも、わたしというものを、本当に唯一無二の、心の底までの打明け相手として許してお
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