みたが、あいにく、人の出入りはほとんど打絶えた門、ほとんど開《あ》かずの門かと疑われるほどでしたが、「光仙林」とものした表札の、目立たぬけれども新しいことによって見ても、最近に人が住みつつあるということは、疑うべくもありません。胆吹は完全に人の住み捨てたところ、ここは人が有るべきところで、人のなきは、なきにあらずして留守なのだ。
 それも道理、この日、宇治山田の米友はがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵と、洛北岩倉村へ出向いて不在。
 不破の関守氏は、その隠宅でしきりに小物の表具を扱っている。もとより素人経師《しろうときょうじ》だが手際が凡ならず、しきりにかきあつめた小美術品の補綴《ほてい》修理を、自分の手にかけて、あれよこれよと繕いに余念がない。
 女王は、安朱谷《あんしゅだに》の雲深きところに鎮座ましまして、人をしてその片鱗をうかがわしめることをゆるさない。臨時かしずきの役を承っているお角さんは、供待部屋を己《おの》れが本拠として、すやすやと昼寝の夢をむさぼっているというていたらくですから、さしも広大な光悦屋敷が、さながら人あってなきが如くなるも道理です。
 兵馬は、それがために、あぐね果てて空しく門前を行きつ戻りつしているが、無人境の一得には、いくら行きつ戻りつしたからとて、べつだん怪しげな目を向ける人もない。それが有ってくれる方が、かえって所望だと言いたいくらい、取合われないのが物足らぬこと夥《おびただ》し。ここで思いきって門内に進入し、過日、胆吹山の廃墟で試みた手段をとろうかと決心して、さすがに思い煩う途端、初めて表門の四辺がザワついて、ひゅうと風を切って走り出したもののあることに目をみはり、
「あ!」
と兵馬も驚いたのは、熊にあらず、羆《ひぐま》にあらず、この国ではめったに見ることができない、というよりも、太古以来絶えて存在を許されていない種類の動物、唐国《からくに》の虎という獣に似たやつが一頭、まっしぐらに門の中からおどり出したからであります。
「虎!」
と叫んでみたが、虎でない。
「彪《ひょう》!」
と呼び直してみたが、彪でもない。全身|斑《まだら》にして、その身体は虎彪に匹敵して、しかもそれよりも勇んでいる。
 兵馬はそれに警戒を加えざるを得ません。心得は有り余るけれども、相手に覚えがない。一時はどうあしらっていいかに迷いましたけれども、虎はおろか、象でも鬼でも一ひしぎと、和藤内《わとうない》の勇気を取戻し、身構えをして見ると、それはやっぱり犬の一種だということがわかりました。
 犬ならば、いかに猛犬なりといえども、猛獣ではない。しかもその豪犬の首には、太やかな縄を引きまとい、それを引摺《ひきず》り、こっちへまっしぐらにやって来るのを、兵馬はやり過して簡単にその縄を引止めると、同時に犬は猛然として兵馬に飛びかかって来たけれど、それは、危害を加える意味の抵抗ではなくして、人間に対する挨拶としてもたれかかって来たということが、直ぐにその気合でわかります。これはいい授かりものが迎えに来てくれた、一番これを囮《おとり》にして、門内へ入り込もう、逸走した邸《やしき》の番犬を繋留して連れ戻って来てやるということになれば、家宅侵入の罪名に触れること決してこれなく、且つまた、感謝をもって受入れらるること、これも相違なし。
 そこで、兵馬は、その大犬の轡《くつわ》を取りつつ、徐々《そろそろ》と光仙林の門内に進入して、林にわけ入り、道なきかと思われる跡をたどって、ついに草にうずもれた不破の関守氏の隠宅の前へ来て、改めて柴折戸《しおりど》を叩くと、直ぐに内から声があって、
「お角さんかね」
「旅の者でござりまするが」
「旅の衆!」
と言って、不審がって小窓から面《かお》を現わしたのは、不破の関守氏であります。それを見て兵馬が、
「御当家の御飼養と覚しき見事な畜犬が、路傍に去来しておりましたから、引連れて参りましたが」
「それは、それは」
と言って、不破の関守氏に諒解があって、急ぎ庭下駄を突っかけて、カラリコロリとやって来る音が聞えます。

         四十八

 その翌日、駒井甚三郎は、鉄砲を肩にして、従者とては船乗の清八ひとりだけを伴い、島めぐりのためと言って、早朝から出かけました。田山白雲も、毎日、島めぐりのために出発しますけれども、これは島めぐりというよりも、写景を目的として、任意に出て任意に帰るのです。
 駒井のは、この島の地理学的研究のための実地踏査の第一歩です。
 広くもあらぬ島でもあるし、気候風土ともに、危険のおそれなきことを確認しての上の出立ですから、特にそれらの準備というようなものも必要なしと見て、日一ぱいに行って戻れるだけに、充分のゆとりを見て、一人で行き一人で帰る、いわば散歩気分の外出に過ぎません。

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