い。山河の形成が、僅かに十六郷を含めたなりで独立している。そうして、その独立が、お銀様の住むのにちょうど手頃である。胆吹は気象が少々荒びていた、ここの空気は淘《よな》げられている。できるならばこの山科全部をソックリ買いたい、これをソックリ買取って我が屋敷として住みたいと望み得るほど、この地形全体が少なくともこの女王にとって、手頃の地形を成していたからです。
 胆吹の女王となるよりも、山科の地主でありたい、そんなような愛着を、お銀様が山科そのものの地相に持ち得られたということが、即ち山科を軽蔑し易《やす》からずとする所以なのでありましょう。

         四十七

 胆吹の女王が、今や、山科の地主にまで脱皮しつつあるということを突きとめたのは、宇津木兵馬として、骨の折れることではありませんでした。
 自然、宇津木兵馬は、長浜から、この山科まで道を急ぎました。近江から山城は地つづき、山城の内にあって、山城以外に立つというべき山科は、近江の国からの取っつきであります。長浜から直行にして十余里の道、この間に、なんらの瘴煙蛮地《しょうえんばんち》はありません。
 兵馬が山科に来て、まず草鞋《わらじ》をぬいだのは、同じく大谷風呂でありました。
 それとなく探りを入れてみたが、案ずるがほどのものはなく、さらさらと解答が与えられます。
 あれは、三井さんのお嬢さんで、今度、この山科の安朱《あんしゅ》の光悦屋敷というのをお求めになりました。あれを地面、家屋敷ぐるみ、そっくり居抜きでお引取りになって、御家来方と一緒にお住いでございます、と明瞭に答えてくれる。三井さんのお嬢様、それは少し変だ、長浜では女賊の張本でもあるように言い、ここへ来ては三井さんのお嬢様呼ばわり。前のが誇張であったように、ここのは仮定であると、兵馬がさとります。つまり、三井さんのお嬢様と言ったのは、三井家にも匹敵するような大金持のお嬢様ということなので、この場合、三井家というのは大金持という代名詞に使用されているまでのこと、戸籍の如何《いかん》は問うところでないと、兵馬がさとりました。
 さて、その三井家のお嬢様の本当の戸籍であるが、それが知りたい、それを知るにはこの女中づれではダメだ、すでに金持のお嬢様だから、三井の名で呼びかけるほどの女だ、重ねて問いかえせば、では鴻池《こうのいけ》さんのお嬢様だっしゃろ、と答えるくらいが落ちであるから、ここでそれを糾明《きゅうめい》するわけにはいかないが、ナンとその三井家のお嬢様に、ちょっとでもいいからお目にかかってお話ができまいものか。
 そういうところからさぐりを入れてみると、それはダメでござります、とても気位の高いお嬢様で、めったな人とはお会いになりませぬ、極々《ごくごく》親しい間の御家来衆でなければ、決して人をお近づけになりませぬ、宿におりましても、御主人様でさえお顔を見たものはござりませぬ、朝も、晩も、頭巾を召してはずさないほどのお方でござりますから。
 なるほど、気むずかしいには気むずかしいらしいが、朝に晩に頭巾を被《かぶ》ってはずすという時がないということは、長浜の見方と相一致する。
 さて、それではぶしつけにおしかけてもダメだ、さりとてしかるべき紹介を求めるよすがなどが、この際あろうはずがない、どうしたものかと兵馬も迷いましたけれども、いずれにしても、相手は妖怪変化《ようかいへんげ》ではない、胆吹から大江山へ飛んだ女賊童子の一味でもないし、正体も居所もすっかりわかったのだからと、この上は手段を尽して、面と相向ってぶっつかるばかりだ、相手が人間であってみれば、難事であっても不可能事ではない、ということに確信を持たしめられたことは喜ばしい。
 なんの、暴女王の暴女王たる正体を知りさえすれば、兵馬には昔なじみの人、まして兵馬に対してはすくなからぬ同情者の一人であり、兵馬の行動に同情者であると共に、その行動に、好意の妨害を試みていたほどの強情もの。甲州の有野村の女王であることに、何の不思議もないのですが、人というものは迷う時は方寸も千里の闇に似て、闇の中で摸索すればするほど正体を暗いところに押しやってしまう。この分で、正面から押せば押すほど遠くへ押しやるにきまっているが、どう考えてもこの際、押しの一手よりほかはないと兵馬の苦心焦慮した行き方も、また無理のないものがあります。光仙林の門のところまで来て、さて、これから堂々と門を叩いていいか、悪いかに惑いました。正面からぶっつかって、かえって後日のことこわしに落ちはしないか、ということも思案してみました。
 そこで、二の足を踏みながら、万一その女王が、外出でもする機会はないか、女王でないまでも、つかまえて物を尋ねるキッカケをつくってくれる御用聞のたぐいでもと、暫く、行きつ戻りつして
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