す。賢愚と、不肖と、性格と、体格には、遺伝があり得るけれども、怪我というものは後天的なものだから、兄貴が負傷して跛足になったからとて、弟まで怪我をして跛足になり得るという遺伝はないのです。
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おっちょこちょいと
おっちょこちょいが
夫婦になれば
出来たその子が
また、おっちょこちょい
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 これは、ふざけたような口合い唄でありますけれども、また一面の真理たるを失わない。
 おっちょこちょいの倅《せがれ》に、おっちょこちょいが生れるということは有り得ることで、王侯将相豈種《おうこうしょうしょうあにしゅ》あらんやというは、それは歴史上を均《なら》して、幾千億万分の一の特例であって、標準とすべくもありません。百姓の子は百姓になり、大工の子は大工になり、町人の子は町人になることに、わけて階級制度のやかましい日本の国では、滔々《とうとう》たる世間並みのおきてになっているが、跛足《びっこ》の子が跛足であり得ること、兄が跛足なるが故に、弟も跛足という常識はありません。
 腕の喜三郎親分(前の政友会総裁鈴木喜三郎氏のことではない)は、兄貴が喧嘩で片腕を失ったから、おれも両腕があっては面白くねえと言って、自分で自分の片腕を切り落して、兄貴と同格になったという特例はあるが、あれは遊侠のする気負いです。これは運命の悪戯《いたずら》! と、さすがの両女傑が、案内の小坊主を見て一時、立ちすくんだのも無理はありません。

         六

 だが、お角さんとても、驚くべきものは驚きもするけれども、驚いてそうして、度を失うお角さんではありません。直ちに平常心を取戻して、案内役の小坊主を、ちょっと杉戸の蔭に小手招きして、耳うちをしました、
「兄さん、御苦労さま、あのね、わたしのお連れのあのお方はね、少しわけがあって、お怪我をしていらっしゃるんだから、あの通りかぶり物を取りません、ね、それを承知してね」
と言って、その途端に、ふところ紙でおひねりを一つこしらえて、この小坊主に持たせようとしました。
 これは、お角さんとしては常識の手法の一つで、悪い意味ではない一つの軽少なる賄賂《わいろ》、あるいは最も好意ある鼻薬! むしろ儀礼の一つであって、お角さんの社会で普通に行われるのみならず、世界的に公認の闇取引――ではない、計算書にまで公然と記入して来られる、記入して来られた方が来られないよりも、むしろ気持のよい世界的の社交関税、通称を「チップ」と呼ばれるところのものの労力に対する報酬、ある場合には敬意を含めたところの意志表示なのでありましたが、この小坊主は、前のかぶり物御免に対しては相当の黙認を与えたけれども、後者の関税闇取引に対しては、断然それを拒絶して、お角親方の好意を無にしてしまいました。つまり、同行の女性が特殊の事情によって、面《かお》に覆面を施しながら間毎を通過するという特権を黙認したのは、これは一種の同情心がさせるわざなのでありました。儀礼を重んずべき女性として、あえてこの無礼を忍ばなければならない事情というものは、他よりは本人が苦痛とするところでなければならぬ。それを押して行こうという事情には、よくよくのものがなければならぬ。そこに小坊主も暗黙の間の同情心が発揮されたと見えるが、白い紙でこしらえた社交関税は、すげなくお角親方の手から拒絶して、押しつけるその手先をかいくぐるようにして、早くも先に立って、お庭先の舞台の方へ逸出してしまいましたから、さすがの親方も、すっかりテラされてしまいました。ぜひなくお角さんは、せっかくこしらえたおひねりをそのまま帯の間へ突込んでしまって、そのあとを追いましたが、この時、もはや女王様は、廊下舞台の欄干に立って、一心に三宝院のお庭をながめているところであります。
 三宝院の庭は、京都に於ける名庭園の一つであります。いや、日本の国宝の一つとして、世界的に名園の一つであります。音に聞いてはじめて見るお銀様には、大なる興味でなければなりません。名園の名園たる所以《ゆえん》の常識は、お銀様の教養の中には、もうとうに出来ている。お銀様が余念なく、自分の眼と頭によって余念なく名園を観賞し、解釈しているところへ、お角さんの社交的儀礼をすげなく、すり抜けて来た小坊主が、早くもそちらに立って滔々《とうとう》と説明をはじめました――
「これなるは有名なる醍醐の枝垂桜《しだれざくら》、こちらは表寝殿、葵《あおい》の間《ま》、襖の絵は石田幽汀《いしだゆうてい》の筆、次は秋草の間、狩野山楽《かのうさんらく》の筆、あれなる唐門《からもん》は勅使門でございます、扉についた菊桐の御紋章、桃山時代の建物、勅使の間――襖の絵は狩野山楽の筆、竹園に鴛鴦《おしどり》、ソテツの間、上げ舞台、板を上げますと、これが直
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