のに相違あるまい。それが西で事を挙げると、こっちは東にいて相撲が取れる相手は覚王院の義観だという見立ては、当るにしても、当らぬにしても、後学のために会って置いていい坊主だ、そういうような気分で神尾主膳は、程遠からぬ、根岸からつい一足上りの上野の山へ今日も出かけて行きました。
 その留守には、お絹がおとなしく待っている。
 誰も来ないとなると、閑の閑たる根岸の里。お絹は大丸髷《おおまるまげ》に手拭を着せて、主膳の居間の掃除をはじめました。
 神尾主膳の居間は、らんみゃくです。王羲之《おうぎし》もいれば、※[#「ころもへん+楮のつくり」、第3水準1−91−82]遂良《ちょすいりょう》もいる、佐理《さり》、道風《とうふう》もいるし、夢酔道人も管《くだ》を捲いている。自叙伝のようなものと、このごろ書きさしたその原稿も散らばっているし、そこらあたりは、さんざんの体でありますが、これは主膳が、ことわって、うっかり手をつけさせなかったという理由もあるけれど、二人ともに無精《ぶしょう》ぞろいのさせる業でもありましたが、今日は、すっかりそれを掃除して、一点の塵もとどめぬようにこの一間を清算してしまいました。
 掃除ということに、こんなに身を入れたことは、お絹としては、生れてはじめてのようなもので、掃除をきれいにしてみると、室がきれいになるばかりではない、身心も何だかさっぱりして、若々しい気分に満ちて、まだ本当の意味では味わったことのない新所帯の気持、どうやら新婚の気分といったようなものに浮き立つのも、いまさら気恥かしい。
 夕方になると、約束よりも早く立戻った神尾主膳。
 お絹に賞《ほ》められること、そうして、その日の晩餐も、睦《むつ》まじく、お絹の待構えた手料理とお給仕で快く済ましてから、食卓の談《はなし》がはずむ。
「聞きしにまさるエライ坊主だよ、あれだけの見識とは思わなかった、実際会ってみると談論風発、当代の人豪顔色無しだ、なるほど、あれなら輪王寺を背負って立って、関東のために気を吐くこと請合い、ちょっと、あれだけの大物は無いなあ、坊主にして置くは惜しい、政治家にしても、軍人にしても、大仕事のできる奴だ」
と言って感歎の声を惜しまない。お絹も煙にまかれて、
「そんなにエライ坊さんが、今時、上野にいらっしゃるのですか」
「いるとも、いるとも、あの坊主の説を聞いて、おれの頭の中は一変したよ、勝や小栗のことは知らないが、まあ、あいつらに勝るとも劣るものではあるまい、あれだけの奴がこっちにいれば、よし江戸の城は明け渡しても、上野の山で持ちこたえる、あいつが軍師で、輪王寺の錦の御旗を押立てて起《た》てば、徳川の旗下が挙《こぞ》って上野へ集まる、本来、ここまで来ないうちに、もっと早く、こちらから積極的に上方へ乗出したかったんだ、あんな坊主を上方へ向けて置いて、あっちで策戦をすれば、今時、こんなに後手《ごて》を食わずに済んだものだろう、そこは、あの坊主も、内心残念がっているようだが、なんにしても、あの坊主を坊主で置くは惜しい」
「そんなにエライお方を、坊主坊主と呼捨てになさって罰《ばち》が当りはしませんか、何という御出家様でございましたかねえ」
「輪王寺の執当職で覚王院義観というのだ、学問があって、胆力があって、気象が天下を呑んでいる、会ってみなけりゃあ、あいつのエラさはわからん、山岡鉄太郎や、松岡万あたりも、あれの前へ出ると子供のようなものだそうだ」
「お山にも、そんなエライ坊さんがいらっしっては頼もしいことでございますね」
「そうだ、義観のほかに、竜王院の堯忍、竹林坊の光映などというところは、覚王院とは異った長所を持つエラ物《ぶつ》だという噂だが、とにかく、覚王院一人に逢っただけでも意を強うするに足るものだ」
 神尾主膳は、よほど覚王院義観に参らされて来たようで、口を極めて感歎の舌を捲くが、お絹はバツを合わせるだけで、人物論などには興味を持ちません。そこで、神尾は覚王院礼讃はいいかげんに切上げて、さて声を落して言うことには――

         四十

「時に、話は別になるが、ここに、ちょっと耳寄りな、聞いて甘いような辛いような口が一つあるのだが、お前、乗ってみる気はないか、お前が乗れば、わしも乗る」
と調子が変ったものですから、お絹も人物論よりは乗り気になり、
「甘い口なら、いつでも乗りましょう、おっしゃってごらんあそばせ、あなたが甘いとお思いになっても、わたしには辛いかも知れません」
「話は至極甘いのだ、いわば葱《ねぎ》に鴨という調子に出て来ているのだが、さて、それに乗るということになると、相当の決心が要るよ」
「まあ、おっしゃってみてごらんあそばせ」
「実はな、ひとつ、京都へ行く気にならないか、お前が行く気なら、おれも行くよ」
「京都へ?」
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