茶の間へ入って見ると、どうでしょう、夥《おびただ》しい御馳走が、ちゃぶ台の上狭きまでに立てならべられて、膳椀も、調度も、取って置きのを特に持ち出したような体《てい》たらくですから、神尾が、いよいよくすぐったいような気持です。
 まもなく二人がお膳についた時に、大丸髷のお絹が、きちんと身じまい薄化粧にまで及んで、たいへんな澄まし方でお給仕に立つのが、あんまり現金で痛み入るくらいのものでした。
「何もございませんが、今日はお婆さんの手料理ですから、たくさん召上っていただきます」
「お手料理かなあ、それは痛み入ったよ」
「お酒は差上げません、精進を妨げるとお悪いから、お酒は差上げません、その代り、お気に召しましたら何なりと」
「どうしてまあ、今日はこんなにもてなされるのかなあ、あとが怖いようだぜ」
「あとの怖いものは、今日はすっかり取上げましたから御安心くださいませ」
と言って、お絹がお鉢を取ってお給仕に当りました。
 神尾としては、この女のもてなしで、こんな晴れやかな気分に置かれたことはない。
 どういう了見で、今日に限って、こんなにまでしてくれるか、わからない。自分の誕生日でもなければ、父母の命日でもないのにと、うす気味が悪いほどだが、それでも悪い気持はしないのです。
「あなたが昨夕《ゆうべ》、どこへも行かずに、おとなしく帰って下すったから、そのお礼心なのですよ」
と言ったから、神尾がははあと感づきました。なるほど、ゆうべ、お世辞にも、待ってる人があるからと言って、吉原附合いを断わって戻って来た、それがこの女は嬉しいのだよ。一人で置いて留守が心配だから、夜更けを押して帰って来た、その心意気を買ってるんだ。買われたこっちはくすぐったいものだが、買った当人の心意気は殊勝でないとは言わない。
 女というものはこういうものなんだ。したい三昧《ざんまい》をしつくしていても、べつだん悪い面はしなかったが、そのしたい三昧をあきらめて、お前のために帰って来た、と言われると、女は嬉しいのだ。何よりも嬉しいと見える。だからこの海千山千の代物《しろもの》が、貰いたての女房のような心意気を見せて、この不精者が、おしろいの手を水仕《みずし》に換えて、輸入のテン屋を排撃して、国産を提供して、おれに味わわせようというのだな。
 女というものはこれだ。あんまり現金過ぎて、くすぐったいけれども、可愛いところがあるよ。なるほど、女は喜ばすべきものだ、女を喜ばすには、金をやることもいいし、品物をやることもいいが、一番いいのは、お前に限ると言ってやることだ。言ってやるだけではない、実行に現わして見せることだ。昨夜おれが吉原行きを断わって戻って来たのを、放蕩者《ほうとうもの》に似合わない、敵に後ろを見せるは名折れだとひやかしたが、本心はやっぱり、おれが吉原を断わって、待たせてある人のために帰って来てくれた、それがこんなに嬉しいのだ。
 そう思うと、この女も存外、女だ、女というものは憎めないものだと、神尾も身に沁《し》みる一種の愛情といったようなものが、油のように滲《にじ》み出して来ました。

         三十九

 こうして睦《むつ》まじく、食事を終ると、神尾主膳が、
「また今日も上野へ出かけて、坊主に面会して来る、話が長くなるかも知れんが、たとえどんなに遅くなっても帰って来るから、お前も、なるべくよそへ出ないでうちにいてくれ」
「ええ、よろしうございますとも、あなたさえ帰って下されば、どんなに遅くまでもお待ち申しておりますよ、悪友がおすすめになりましても、昨晩のように待っている人があるからと言って、御免蒙っていらっしゃい」
「今日のは悪友じゃない、坊主に会って来るのだから、いよいよ安心なものだ、その坊主も只者《ただもの》ではない、エライ豪傑坊主だということだから、こっちが望みで会いたいのだ」
「何でもいいから、エライお方にはお目にかかってお置きなさい、つまらない人にはなるべく会わないように、己《おの》れに如《し》かざる者を友とする勿《なか》れって言いますから」
「いやはや、世界は変るぞい、お前から論語を聞くようになった。じゃ、行って来るぞ」
「行っていらっしゃい、お早くお帰りなさいよ」
 こうして、すっかり身なりをととのえてやり、ポンと一つ背中を叩いて、出してやりました。
 神尾主膳の行く先のエライ坊主に会いに行くというのは、覚王院の義観のことでしょう。覚王院も、竜王院も、その昔から知らぬ間柄ではない。世の常の坊主と思っていたら、このごろになって、その評判がばかに高い。ことに昨夜の鈴木安芸守の見立てによると、京都の公卿の岩倉三位というのと匹敵する人物だという。岩倉がどのくらいの人物か知らんが、朝廷にいて、薩摩や長州の首根っ子を取って押えるというのだから、相当なも
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