できない」
と、こう独《ひと》り言《ごと》を言いながら、ほくそ笑みをつづけましたが、その笑顔は、我が子の手柄を親としての自慢と誇りに堪えないような笑顔でないと誰が言います。事実上、七兵衛は、わがこと成れりというほどに、そのことを喜んでいるのは確かです。
 お松についても、駒井についても、知るだけを知りつくしている七兵衛入道は、今さら、「縁は異なものとはよく言ったものだなあ」と、ひたすら、その縁という異常なることに感じて、それの正しいか、正しからざるかは考えていないらしい。考える暇もないらしい。もし、少々でもその余裕があったとしたならば、彼は第一に、このことが宇津木兵馬というものにとって、いいことか、悪いことか、そのことだけでも一応は考えなければならないはずなのです。
 七兵衛としては、一日も早く兵馬に本望を遂げさせて、そのあと二人を一緒にしてやる、これが一生の願いで、これまで陰に陽にそのことに力を入れて来たのですが、ここで、そういう結構が、すっかり打ちこわされてしまっていることを知った以上は、お松に対して苦言を言わなければならず、駒井に対して直諫《ちょっかん》もしなければならないところなのですが、これがすっかり消滅して、
「お松もいよいよ女になった、これで、おれも安心だ」
という安心と満足でいっぱいなのは、どうしたものでしょう。こうして七兵衛が、大安心と満足で満ちきっているところへ、天幕の外から、
「おじさん、来ているの?」
 これも、うら若い女の声でありました。紛《まご》う方《かた》なき奥州の南部で、七兵衛入道がむりやりに押しつけられて来た、お喜代という村主の娘の声に相違ありません。

         三十一

「お喜代坊か」
と七兵衛が言ったので、
「おじさん、一人?」
と答えて天幕の中へ現われたのは、湯の谷の温泉で、きわどい時に拾い当てた山方の娘のお喜代であります。
 お喜代は、紺飛白《こんがすり》のさっぱりした着物をつけて、赤い帯をしめ、手拭を髪の上に垂らして、手甲《てっこう》脚絆《きゃはん》のかいがいしいいでたちで入って来ました。その張りきった体格と、娘でありながら、まだ子供のような無邪気な初々《ういうい》しさが、思わず七兵衛を見惚《みと》れさすものがあります。
「ああ、わしは今、駒井様へ行ってお指図を受けて来たところなんだが、もう、みんな働きに来るだろう、喜代ちゃん、そこへ火を焚《た》きつけておくれよ、お湯をわかしといてもらいてえ」
「はい、承知しました」
 極めて柔順に、この子は、七兵衛の言いつけを聞いて、急ごしらえの築立竈《つきたてかまど》の下へ、薪《たきぎ》を折りくべて火をたきつけ、やや遠いところの水汲場へ行って、バケツへ水を満たして来て、釜に入れたりなど、まめまめしく働く。その働くさまを、七兵衛は、こちらから煙草をのみながら、じっとながめておりましたが、
「ああ、ここにも娘盛りがいる」
と言って、何か深く考えさせられたものがあるようです。
 お喜代は、あんなにして七兵衛が貰い受けて来たというよりも、変った意味の前世の約束で、無理に背負わせられて来たのだが、こうなってみると、有力な拾いものであります。有力どころではない、求めても得られない、珍重な拾い物をしたと思わずにはいられません。
 その当座こそ、この娘は、さんざんに泣きもしたし、故郷を恋しがったりして手がつけられなかったけれども、今は慣れきってしまいました。これが与えられた生活であるという希望が、ようやく芽を出して来たのは、上陸して後にはじまったのではありません、船の中が好きになりました。海上生活が好きになったというよりは、この中の同志が物珍しくて、そうして、いずれも内容があって、親切であることが、単純な山の中の人と共に生きているよりは、なんとなしに豊かなものであることを知って、この人たちと共に暮すならば、海の涯《はて》、山の奥、どこまでもと言いたい気分になっているのでした。それから、この植民地が出来るにつけても、女としては唯一無二の働き手です。お松も働き手ではあるが、それは上局の部分に属して、主として船長附きになっているから、開墾そのものと、その生活の世話に、手を下して助力するということはできません。その不足を、お喜代ひとりが補って余りあるのです。この娘は山方でも、家柄のいいところへ生れたのですが、労働を厭《いと》わないのみならず、労働に慣れておりましたから、ほんとうにここでは三面六臂《さんめんろっぴ》の働きをします。口数が少なくて、働くことは三人前もしますから、この点に於ても申し分はありません。そうして、張りきって何不足なく働くものですから、体力もみるみる実が入って、はちきれそうな肉体の豊かさを、紺飛白の着物の下から、唐ちりめんの赤い襷帯締《たすき
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