極めておだやかでありますけれども、その徹底を求めてやまざる意志の強烈にはあえて甲乙なしというべきでしょう。
果して、治者なく、被治者なき社会の存立があり得るや。命令と、法律と、その後に強力がなくして多数を統御し得るや。これは、これだけの少数同志ならばとにかく、この形式を、何千何万倍の人数に及ぼし得る可能が有り得るや否や。駒井甚三郎は身を以て、これが実験にとりかかり得たものと見なければなりますまい。
総員はみな無条件に聴従したけれども、この中の誰が、駒井の本心に共鳴し得るや。田山白雲すらが、その深い洞察はできない。聴従はするが、共鳴はないのです。そこに駒井としては、無上の希望があると共に、無限の淋《さび》しさがあるというものです。
二十四
かくて、田山白雲の設計図により、附近の木石を利用し、船中からも相当の資材を持ち出し、かなりの新館が、忽《たちま》ちに出来上りました。
船は島蔭の程よき所に廻航して、そこに据附けの形となり、多くは小舟によって往来しつつ、そこを宿所として工事に働きに出ましたが、ほどよく新館が出来てみると、船に留って守るものと、新館に移動する者と、交代に手分けをしなければなりません。
それから、附近を詮索《せんさく》して水道の工事があり、やがて開墾にとりかかって、草木を焼き、或いは伐《き》り、開くあとから種を蒔《ま》きはじめました。幸い、農事にかけては七兵衛入道が万事本職で、熟練した指導ぶりを見せていますから、仕事の捗《はかど》ること目ざましきばかりです。
そのうちにも、休息と、慰安の時間は多分に与えられて、仕事の余暇は、おのおのその楽しむところを発揮するの自由を与えられましたから、ほんとうにすべてがトントン拍子で、幸先は決して悪いものではありません。
駒井甚三郎は新館の一室を書斎とし、一室を寝室とし、食事は多勢と共に食堂兼用の広間ですることもあれば、書斎に取寄せて済ますこともある。駒井の次の一間は、秘書役のお松の部屋です。
お松は、駒井の秘書と、内政と、その事務の助手のすべてを兼ねて、なくてならぬ人です。
駒井が研究に没頭して事務に遠ざかる時は、お松でなければ駒井に代って取りしきる人がありません。田山白雲は豪放|磊落《らいらく》を以て鳴り、このごろは、その附近の異風景の写生に専《もっぱ》らで、義務として開墾に応分の力を出すほかには、細務に当るの余暇がない。時としては、島めぐりに日を重ねて帰ることさえある。
いちいち、駒井船長の指揮を仰ぐことの代りに、お松さんに相談すれば、大抵の用は足りる、というところから、お松の地位が、責任と繁忙を加えて来るのはぜひがありません。
駒井は、お松の才能を見て、得難き人を与えられたることを心ひそかに感謝している。この娘には万事を任せて間違いがないと信じていることは、いつも変らない。異常なる興味と、熱心と、忠実とを以て、自分の身のまわり一切の処理をしてくれる、その勉強ぶりをじっと見ている駒井の眼に、いつか涙のにじむことさえある。
「ああ、この子も娘ざかりなのに、考えてみれば自分は、この娘の未来を無視しているのではないか、自分は自分で趣味に生き、理想に生きて行くのだから、どんな山海万里の涯《はて》に果てようとも厭《いと》うところはないが、考えてみると、それだけの趣味も理想も持たぬ人たちを、強《し》いてこっちの趣味と、理想に引張り込んで、世間並みの希望と快楽を、すべて奪ってしまうにひとしいことになりはしないか、ことに娘ざかりのこの子たちを、今はこうして、自分というものに引きずられて、無我に働いてくれるようなものの、いつか眼がさめて、幻滅の悲しみに泣かすことはないか、眼がさめた時は、もう盛りが過ぎた時で、女の一生が色のあせたものになってしまって、一生を老嬢の淋《さび》しさに泣かすようになった日には、その罪は誰が負う、本来ならば、年頃になったような娘は、早くしかるべき相手を求めて、とにかく一人前に納めてやることが先輩の義務であろうのに、自分はただいい秘書を求め、助手を求め当てたことだけに満足していて、それで済むか、今の忠実を見るにつけ、後の心配をしてやるべき責任は自分にあるが、こうなってみると、世間並みの家庭に納めて、世間並みの肩身を広くさせてやることができない、体《てい》よく、こちらの犠牲として一生を廃《すた》らせてしまうことになるのだ、その点は気の毒に堪えない」
駒井は、お松の仕事ぶりを見ながら、つくづくそれを感じて、つい、深い感慨に陥ってといきをつくことさえある。今日も、朝のうちから、皆の者は開墾に出て、駒井は研究室で、地図と海図をひろげて調べている、その机の一方で、一心に記録をうつしているお松を、横からながめて、またも、うっとりとその感謝と
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