田源太夫のことでございますよ」
「松田源太夫――あんまり聞いたことのない名じゃ」
「源頼朝公から、建礼門院様お目附のために差しつかわされた鎌倉の御家人《ごけにん》の名でございます、それがあの森に屋敷を構えていて、建礼門院様のお目附をしていました」
「それは古い昔のことだなあ、そこに今晩お祭りがあるのですか」
「森の中に竜王明神の祠《ほこら》がございましてね、今晩はそこで忍踊りがございます」
「なるほど、唄が聞えますな」
「さあ、しばらく、そのままで、あの唄を聞いていらっしゃい」
「節《ふし》は聞えるが、詞《ことば》はわかりません」
「森へ着くまでの間に、唄のおさらいをして上げますから、お聞き下さい、あちらの調子に合わせて、わたくしが唄って上げますから」
 森の中で起る節を伴奏にして、水々しい尼さんは、こちらの耳にもはっきりわかるように、忍踊りの歌詞《うた》を唄い出しました。
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わが恋は、小倉《おぐら》の里のひる霞
つもりつもりて、はれやらぬ
忍踊りを一踊り
われが身は、君を思うて浮かるるも
行くもかえるもうつつなや
忍踊りを一踊り
忍び行く、のべの川瀬は浅かれよ
君の契《ちぎ》りは深かれよ
忍踊りを一踊り
君様に、ここに一つのたとえあり
清滝川も濁りそろ
なにとて君様つれなさよ
忍踊りを一踊り
君様を、思いかけたる庭の花
うらの妻戸を忍び入る
忍踊りを一踊り
忍び入り、君の枕に手をかけて
ここでこの夜を明かせかや
忍踊りを一踊り
今ははや、思いし恋いしがかの[#「かの」に傍点]てそろ
枕屏風《まくらびょうぶ》にかたよけて
物語りは限りなや
忍踊りを一踊り
[#ここで字下げ終わり]
 若々しい老尼は、忍踊りの声を逐一《ちくいち》、遠音の伴奏に合わせてうたい出したが、やがて手をさし、足をのべて、おのれも踊りながら歩いて行く。
「手ぶりなら、こちらへきてござんせえな、トトさんも、カカさんも、ニイも、ネエも、ボーも、マーも、みんな踊ってござんすわいなあ」
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やれやれよういな
声が欲しいわいな
「ちょいとこなあ」
よう立つ声が
声で人をや、迷わすは
しょんがいな
[#ここで字下げ終わり]
 これや名代《なだい》の大原女《おはらめ》、木綿小紋に黒掛襟の着物、昔ゆかしい御所染の細帯、物を載せた頭に房手拭、かいがいしくからげた裾の下から白
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