物得物を調べてみると、合掌するもの、輪《りん》をとるもの、槊《さく》を執るもの、索《さく》を執るもの、羅《ら》を握るもの、棒を揮《ふる》うもの、刀を構えるもの、印を結ぶもの、三十六臂三十六般の形を成している。
 再び頭上を見直すと、さきには忿怒瞋恚《ふんぬしんい》の形相のみが眼に入ったが、その頭上は人間的に鬢髪《びんぱつ》が黒く、しかもおごそかな七宝瓔珞《しっぽうようらく》をかけている――
 物に怖《お》じない暴女王の眼も、このまま見上げ見下ろしただけで消化するには混乱しました。その時、お銀様は甲州の家にあった「阿娑縛抄《あさばしょう》」一部を惜しいものだと思い出さないわけにはゆきません。
 甲州の家には文庫が幾蔵もあった。お銀様は、それを逐一風を入れて虫干をしたことがあります。ゆくゆくは残らず、それを頭に入れるつもりでありましたけれども、その時は一通りの風入れでありましたが、「阿娑縛抄」百八冊を手がけてみたのも、その時のことでありまして、この大部の書のあらわすところが何物であるかに歯が立ちませんでした。他日必ず読みこなしてみせるとは、この女王の気象でありましたが、その時は、一種異様な大部な書物である、内容がなかなか食いつけないのは、その中には夥多《かた》異様の彩色絵で充たされている、その彩色絵が一種異様なグロテスクのみを以て充たされていて、いわゆるさしえの常識では全く歯が立たない。何を書いてあるものか知ら、これぞ世間に言う「真言秘密の法」を書いた本に違いない、ということを、その時にお銀様が感じました。
「真言秘密の秘伝書」――これは研究して置かなければならない、と心がハズンだのは秘密そのものの魅惑で、この女王は秘密を好むのです。その時は秘密の法は即ち魔術の一種で、超自然力以上の魔力の秘伝がこの本に書いてある、この本を読んだ人が役《えん》の行者《ぎょうじゃ》になれる――というような世俗的魅力がお銀様をとらえたのですが、その直下《じきげ》にこれをこなすの機会と時間とを与えられなかったから、いつか「阿娑縛抄」を読み解いてみせるとの心がけだけは失われていなかったのですが、それがあの時の火事で、すっかり焼けてしまいました。そのことを今になって、くやむの心がお銀様の胸に動いて来ました。
 お銀様は剛情です。わからないことはわからないとして、知らざるを知らずとして問うことは、こ
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