めんと、書棚に立った時から、この若々しい老尼の頭に魔がさしました。
 というのは、参考書として、仏典の字引を求めて来るつもりのを、ついして、机の上に持ち来たしたところを見ると「古今著聞集《ここんちょもんじゅう》」。
 しかも、手に当った丁附《ちょうづけ》のかえしが巻の第八とありましたことから起ったのです。
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「ある人、大原の辺《ほとり》を見ありきけるに心にくき庵ありけり、立入つて見れば、あるじとおぼしき尼ただ独《ひと》りあり、すまひよりはじめて事におきて優にはづかしきけしきたり、しかるべきさきの世のちぎりやありけん、又此人をたぶらかさんとて魔や心に入りかはりけん、いかにもこのあるじを見すぐして立ちかへるべき心地せざりければ……」
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 これから平家物語が、著聞集に乗換えられてしまったのは、魔の為《な》すことというよりほかはありますまい。かくて心が乱れそめて、
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「ちかくよりてあひしらふに、この人思はずげに想ひて、ひきしのぶを、しひて取りとどめてけり、あさましう心うげに思ひたるさま、いとことわりなり、何とすとも只今は人もなし、あたりちかく聞きおどろくべき庵もなければ、いかにすまふとてもむなしからじと思ひて、ねんごろにいひて、つひにほいとげてけり、力及ばで只したがひゐたるけしき、ひとへにわがあやまりなれば、かたはらいたき事かぎりなかりけり、したしくなつて後、いよいよ心地まさりて、すべきかたなかりければ、さてしも、やがてここにとどまるべきものならねば、よくよく拵《こしら》へ置きて男帰りにけり、さてまた二三日ありて尋ね来てみれば、かのすみかもかはらであるじはなし、かくれたるにやとあなぐりもとむれども、つひに見えず、さきにあひたりしところに歌をなんかきつけたりける、
 世をいとふつひのすみかと思ひしに
   なほうき事はおほはらのさと」
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 それから物ぐるわしくなったこの若々しい老尼は、六道も灌頂も打忘れて著聞集に引かれて行くことが浅ましい。
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「山に慶澄註記といふ僧有りけり、件《くだん》の僧の伯母《をば》にて侍《はべ》りける女は、心すきすきしくて好色はなはだしかりけり、年比《としごろ》のをとこにも少しも打ちとけたるかたちをみせず、事におきて、色ふかく情ありければ、
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