五十
駒井甚三郎は、まず、初発音に於て、この異人氏が英語は話すけれども英人でないことを知り、話してみると、この土地に孤島生活をしているけれども漂流人ではないということも知りました。誰も予想する如く、船が難破したために、この島へ漂いついて、心ならずも原始生活に慣らされている、早く言えば、ロビンソン漂流記の二の舞、三の舞である、とは一見、誰もそのように信ずるところだが、少し話してみると、やむことを得ざる漂流者ではなくて、自ら好んで単身この島へ渡って来て、また好んでこういう原始生活を営んでいる生活者であるということを、駒井甚三郎が知りました。
これが駒井にとって、一つの興味でもあり、好奇心を刺戟すると共に、研究心をも刺戟して、これに会話の興を求めると共に、この異風の生活の白人を研究してみなければ置かぬ気持にもさせたのです。今日の開明生活を抛《なげう》って、何しに斯様《かよう》な野蛮生活に復帰したがっているか、それも、やむを得ずしてしかせしめられているなら格別、好んでこういう生活に入り、しかも、一時の好奇ではなく、もはや、あの小舟が朽ち果てる以前から来ており、今後、この島にこの生活のままで生涯をうずめる覚悟ということが、驚異でなければなりません。
駒井甚三郎と異人氏の、覚束《おぼつか》ないなりの英語のやりとりで、しかも、相当要領を得たところの知識は、だいたい次のようなものでありました。
この白人は、果して英国人ではない、本人は、しかと郷貫《きょうかん》を名乗らないけれども、フランス人ではないかと駒井が推定をしたこと。
年齢は、こういう生活をしているから、一見しては老人の如くに見ゆるが、実はまだ三十代の若さであること。
学問の豊かなことは、ちょっと叩いてみても、駒井をして瞠目《どうもく》せしむるものが存在していたということ。
そこで、つまりこの青年は、三十代と見ればまだ青年といってもよかろう、一見したのでは五十にも六十にも見えるが――この青年は、何か特別の学問か、思想かに偏することがあって、その周囲の文明を厭《いと》うて、そうして、わざとこの孤島を選んで移り住んでいる者に相違ないということが、はっきりと判断がつきました。
そういう類例は、むしろ東洋に於ても珍しいことはない。日本に於ても各時代時代に存在する特殊の性格である。こういう隠者生活というものは、
前へ
次へ
全193ページ中120ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング