りせざるを得ません。
 さりとて、これから突留めなければならぬのは、机竜之助の身柄よりも、むしろ問題の女賊そのものの身性《みじょう》である。これは物が物だけに、存外早く手がかりがつくだろう。大江山というは、この女性のロマンがかりで、もっと近いところに、別生活に入りつつある。そういうことが想像されるものですから、更にここでその手がかりを求めなければならぬ、けれども、この若いお内儀さんにこれ以上を求むるのは無理だ、ということをさとり、さて、翌日は結束して再び昨日の臨湖の汀《みぎわ》に来て見ると、昨日ありしところのかの木標はなく、卒都婆もありません。砂の上には供養塔を立てたその痕跡さえなく、汀の波には卒都婆を弄《もてあそ》ぶ波の群れのみ昨日に変りありません。
 何者か抜き取って、木標は湖中に捨ててその行方《ゆくえ》を知らず、卒都婆は流れ流れて人の拾うものもなし。昨日まざまざと見た臨湖の景色が夢で、胆吹の夢に見たまぼろしに、かえって真実なりと欺かれる。兵馬はたよりなき感覚の幻滅を歎くことに堪えられない思いです。

         四十六

 机竜之助は胆吹の女王のために殺されたり、という宇津木兵馬の幻覚は、幻覚に似たる真実でないということはありません。
 ある意味では、竜之助が、女王の手に殺されているのは胆吹に始まったことではない。
 殺すということは、生命を奪うことで、生命を奪うということは、生命を亡くすることではないのです。単に生命の置きどころを変えたというにとどまるもので、かりに竜之助が暴女王の手にかかって殺されたりとすれば、それは女王が竜之助の生命を取って、自身の生命の中に置き換えたということの変名であって、竜之助そのものは、お銀様の中に生きている、お銀様は彼の肉体が無用になって、その生命の置場所になやんでいるのを見てとって、彼の生命を掴《つか》み取って、自分の体内に置き換えてやったという意味になるのですから、斯様《かよう》な殺し方は慈悲心の一種でさえある。形骸としての机竜之助が、柳は緑、花は紅の里を、いかなる形式でさまよい歩こうとも、それは夢遊病者の行動を、映し絵としてながめるだけのもので、彼の真の生命は、他のところに置き換えられて生きている。今後のお銀様は即ち竜之助であり、竜之助の更生が更にお銀様でないとは誰がいう。
 今や、お銀様の存在は一つの恐怖です。この
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