る、要らぬ遠慮――
 と兵馬は決心して、その戸棚の中のめぼしい一つを、力を極めて押破ってみました。
 別に一ツ目小僧も出ては来なかった、これは確かに夜のもの、夜具《やぐ》蒲団《ふとん》の一団と認定のできた大包み、それを引出して解いて見ると、果してその通り、絹紬《きぬつむぎ》のまだ新しい夜具が現われる。
 とこうして、兵馬はついに、その新しい夜具を豊富に打着て、就眠の人となりました。
 働いているから眠りに落つることも早い。

         四十五

 肉体は疲れているから、眠りに落つることははやかったけれども、神《しん》は納まっていないから、睡眠が必ずしも安眠というわけにはゆかない。夜半、兵馬の胸を推《お》すものがある、うつつにながむれば、
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「無明道人俗名机竜之助之墓」
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 それは湖畔の木標ではなく、まだ切立ての一基の石塔であります。一方を見ると、同じような石塔が比翼の形に並んで、それに、[#「それに、」は底本では「それに」]
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「同行淡雪未開信女之墓」
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とある。
 この二つの石塔が、どことは知らぬ荒草離々たる裾野の中に、まだ石鑿《いしのみ》のあとあざやかに並んでいる。近づいて見ると、その後ろに墓守が二人、しきりに穴掘りをしている。傍らには布で巻いた二個の棺を据えて、しきりに墓穴を掘っている。それを覗《のぞ》き込もうとすると、墓と墓との間の丈なす尾花《おばな》苅萱《かるかや》の間から、一人の女性が現われて、その覆面の中から、凄い目をして、吃《きっ》と兵馬を睨《にら》みつけて、
「ここへ来てはいけません、あなた方の来るところではありません」
 その睨む眼の険しいこと、兵馬は、たしかに胆吹山の女賊の張本に相違ないと思いました。
 夢うつつは、その程度、それ以上、深刻にも精細にもなりませんでしたけれども、醒《さ》めた宇津木兵馬は、怖ろしいよりも、その暗示性の容易ならぬことに心が乱れました。
 かくて、いったん、破れた夢が、またあけ方まで無事に結び直されましたが、日の光、鶏の声が戸の隙から洩《も》るるを見て、兵馬は立って、一枚の雨戸を繰ると、満山の雪と見たのは僻目《ひがめ》、白いというよりは痛いほどの月の光で、まだあけたのではありません。
 それから、兵馬の頭に来た、何の拠《
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