から、お絹が、
「どうあそばしたの、イヤに御遠慮をなさるのねえ」
「うむ」
「何をそんなに考えていらっしゃるの」
「今日は精進日だ」
「そんなに精進というものは附いて廻るものですか知ら、わたし、気になりますわ、そんなに精進精進とおっしゃられると、わたしまで気が滅入《めい》ってしまいます」
「いや、悪く取るなよ、実は飲みたいんだ、咽喉《のど》から手が出るほど飲みたいんだが――これを一杯飲むとあとを引く」
「たんとお引きなさいな、そんなに幾つもいただけるお酒ではありません」
「一杯あとを引けばまた一杯――しまいにはお前を夜通し寝かさない」
「そんなこと、苦になりませんよ」
「それだけならいいが、拙者の病が出る、久しく酒乱の見せ場を出さなかったが、こいつは急に自分を誘惑する、手つかず人を酒乱に落しそうな酒だ、今晩は我慢しよう」
「そうおっしゃるなら、免《ゆる》して上げましょう、今晩はあなたの精進をさまたげないで上げましょう、では、わたしが代って」
と言いながら、小さなギヤマンについだブランと称する黄金水をとって、お絹がグッと呷《あお》ってしまいました。そうして、仰山に眉根を寄せて、火の玉でも呑み込んだ思い入れで、胸を揉《も》む形が可愛らしいお婆さんだと言って、神尾をよろこばせました。
そうして、精進にはじまって精進に終った神尾が、その夜は無事に閨《ねや》に入りました。
三十八
寝についたが、妙にかん[#「かん」に傍点]が高ぶる。今晩の鈴木邸の会談が骨となって、それにさまざまの想像の肉が附こうというものです。
それでも暁方《あけがた》になると神経が鎮《しず》まって、それから熟睡に落ちて、朝日の三竿《さんかん》に上る頃にやっと眼をさましました。こんなことは、いつもの習いですが、昨晩の昂奮は内容が日頃と違ったまでのことです。
不承不承に起き上って見ると、お絹が台所で何かと小まめに働いているらしい。こんなことも珍しいもので、起きて見ると、おめかしの最中であってみたり、どうかすると置いてけぼりを食って、一日を焦《じ》らされてしまうこともおきまりのようなのに、今日はお台所で甲斐甲斐しく立働いている物音が、なんだかくすぐったいような気持がさせられて、それでも、一軒の家で主婦がまめまめしく台所で働く物音は、悪い感じは与えないものだと思いました。
それから、
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