はおれが着るから、貴様も手伝え」
と言うから、よし来た! と刀を抜いて、枝をブチ切ってしまったよ。もう、首が括《くく》れない、あれへ来て死神に招かれる奴もあるまい、いい人助けをしてやったぜ。
だが、岡野には感心したよ、おれが助けた奴を、またわざわざ助けに来る義心がエライ上に、あの君子人のくせに、刑罰を覚悟で悪魔払いをしようてんだから見上げたもんだ――五郎魔は五郎魔らしい身の上話をして、座興が湧いたから、第三次としてこれから吉原へ行こうと言い出したのを、無論、それを断わる神尾ではあるまいと見ていると、案外にも、今宵はこれで御免を蒙《こうむ》る、ほかに待っているのがあるからと言って、首を横に振ったのには、土肥庄次郎も、大師堂五郎魔も呆気《あっけ》に取られました。
三十七
ほかに待っているのがあると言って、吉原行きをことわって引返して来た根岸の侘住居《わびずまい》。
これでは神尾もすでに老いたりだ、だが、他に待っている者があるとの口実が、いささか気がかりではある。
いったい、誰が、この化物屋敷に神尾を待っている?
待っていると言うたとて、ほかの者が待っているはずはない、先代ゆずりの、お絹という肌ざわりの相当練り上げられたのが、縮緬皺《ちりめんじわ》をのばして待っているくらいのもの。これが待っているからとて、附合いを外してまで戻ってやらねばならぬほどの、姉《ねえ》や思いの神尾ではないはずだ。姉やの方でもまた、一晩や二晩よりつかなかったからとて、おいたをしてはいけません、という程度のもの、きついお叱りがあろうはずはない。
それでも神尾は、夜のおそきを厭《いと》わず、御行《おぎょう》の松の下屋敷へかえって来て、戸を叩くと、まだ寝ていなかったらしいお絹が、直ぐに戸をあけてくれたのを見ると、今日は、でかでかと大丸髷《おおまるまげ》のしどけない姿。毛唐の真似《まね》をして、束髪、女洋服ですましてみたかと思うと、もうがらり変って、おやじをあやなした時分の大時代の姿で納まり込んでいる。気まぐれな奴だと、神尾は横目で、じろじろと丸髷をながめながら通ると、お絹は自分の部屋で、ひとりギヤマンを研《みが》いていたらしい。
幾つものギヤマンをそこへ並べて、その傍らには中形の壜《びん》がある。ちゃぶ台の上へそれを置いて、
「よくお帰りになりましたね」
「ああ、感心
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