ことはやらない、いわばお人好しの方であった。
 そのうちに土肥庄次郎は、長崎へ行くようになってから、二人の交りはパッタリと絶えて幾久しい間、ここでめぐり会ったというものだから、相当|入魂《じゅっこん》であるべきだが、実は土肥はその後の神尾をよく知らず、神尾もまたその後の土肥のことはあんまり知らずにいて、ここへ来たものだから、再会のようで、実は生面《せいめん》にひとしい。
 しかし、ともかく、蛇《じゃ》の道を心得た昔の悪友が来た日には、この帰りはただでは納まらない。土肥庄次郎と、もう一人のために、神尾は誘惑を受けて、まず広小路の松源へ引っぱり込まれ、そこで飲みはじめました。
 土肥庄次郎が同行の一人というのは、ずんぐりと肥った伝法な男で、これは大師堂五郎魔であります。庄次郎と五郎魔とは、後《おく》ればせに、ちょっと来て、主人鈴木安芸守を呼び出して、ちょっと耳打ちをしたかと思うと、立ち際の一座と共に、慌《あわただ》しく帰りましたから、勢い神尾と門前で挨拶をし合わなければならぬ、その機会が松源への誘惑となったのですが、それを辞退する神尾でなかったのは、相手が相手だからでしょう。
 松源の二階で、神尾主膳と、土肥庄次郎と、大師堂五郎魔とが、三人で飲み合いました。
 酒を飲み出すと、興にのって、土肥庄次郎らがこういうことを口走りました。これは極々の秘密事項だから、断じて口外はならんが、拙者と五郎魔が、今晩、鈴木重役へ相談に行ったのは、当時流行のスパイ一件のためであるということで、それはこのごろ、上方から間諜《かんちょう》がこの上野の境内へ入り込んでいる、ドコにどういう奴が幾人入り込んでいるか、そのことはわからないが、その目的だけは、はっきりわかっている、それは輪王寺宮御所蔵の錦の御旗を盗み出さんがためである、無論、盗まんがための盗みではなく、西国方の廻し者であって、宮のお手元に錦の御旗を置くことは、何かにとって危険極まりがないから、それを盗み取って、善処しなければならないという、そのたくらみの目的だけは、庄次郎が聞き込んでいる、それを警戒のために鈴木安芸守に耳打ちに来たのだが、今度、我々に於ても抜かりなく、そこへ眼をつけて、やはり、間者を取って押えなければならぬということです。
 これは土肥庄次郎の打明け話で、次は大師堂五郎魔の実験談――
 つい昨晩のこと、五郎魔が、お茶の水
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