関西の勢力が朝廷を擁し、関東と相対峙《あいたいじ》するような形勢となると、輪王寺門跡のおわすこの上野の山が関東の王座となって、江戸城は、その衛城であること京都の二条城にひとしい。この意味から上野は守らなければならぬ、上野が関東の最後の、かつまた江戸での最上の本地となるのだという意見には、誰も異議はない。
それから、朝幕と、各藩各勢力の有する人物評判などに及んで、こういう時勢に於ては、おのおのその有する各藩の人物の如何《いかん》によって、興廃の運命が決するというものだ。ところで、鈴木安芸守が人物論について、次のような傾聴すべきことを言いました。
「京都に於て、公卿で第一に怖るべき人物はというと、それは岩倉三位だ、あれが容易ならぬ曲者で、薩長といえども、まかり間違えば、岩倉のために手玉に取られない限りもない、あれは睨《にら》みが利《き》く、薩長の何人といえども、岩倉三位に対してだけは、正面から押しの利く奴が無い」
と、きっぱり言いました。岩倉三位に対して、ともかくもこれだけの認識を持っているというのは、鈴木安芸守が、やんごとなき御方の、おつきの養育係を命ぜられて四年間、京都に留まったその経験がさせることと思われますから、いずれも耳を傾けました。今の関東では、やれ長州に高杉があるの、薩摩に西郷がいるのと言っても、てんで取上げはしない。旗本たちにとっては、薩摩や長州の藩主そのものでさえが、己れと同格以下に心得ている伝統的の自尊心があるから、そのまた下の軽輩共などが眼中にあろうはずはない。それは浮浪人同様のもので、月旦《げったん》の席へは上せられない。かりに上せられても、一刷毛《ひとはけ》で片づいてしまう。しかし朝廷を擁する公卿となると、実力は問題にならないとしても、その門地の物言う勢力が、彼等をして軽視を許さない。そこで、公卿の人物観に於ては、存外、身を入れて聞くのでありますが、鈴木の岩倉観には、是非共に一言をさしはさむことができない。その代りに、
「では、関東方で、その岩倉に匹敵する人物は誰じゃ、西の岩倉と組んで、引けを取らぬ東の関は何の誰だろう」
岩倉にケチをつけてみたいが、つける知識の持合せが無い、その反動として、東でこれに対抗する人物ありや、と伝法の一人が質問を発したのは、将を射んとして馬を射るの戦法に似たものがあります。そうすると、鈴木安芸守がこれに答えて次の
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