ち》して上げるべきはずなのに、それをせずに、こうして、いい気になって、娘ざかりをあだに過させ、今後とても、そういう希望を以て、君を世に出して上げることが覚束ない、それを思うと、自分の罪に戦《おのの》かずにはいられないのです。人というものは、己《おの》れの理想に熱中していると、知らず識《し》らずその家庭に大きな犠牲を作るものだということを、今ごろ、つくづくと考えさせられた次第なのです。そこで、そなたの身が不憫《ふびん》でならなくなりました、今までは、物としての人を見たのですが、今は人としての女を見たのです、自分の心の弱き部分が綻《ほころ》びて、血を出したようなものなのです、深く気に留めないで下さい」
物やさしく言う駒井の言葉が、今日はナゼかお松の心を動かすことが深く、いつも、はきはきと答える言葉が、今日はまとまらず、この深甚《しんじん》な、異例の言葉に対して、何と挨拶すべきか、お松はぽっとしてしまいましたが、やがて、卓の上に泣き伏してしまいました。声を揚げて泣いてしまいました。
二十六
その時から、駒井甚三郎とお松との間の感情が、平静を失いました。
お松は、駒井にとって唯一の秘書であり、助手であることは変りはありませんけれども、今までの虚心であることができません。この人に近づくことに、心を置かなければならなくなりました。駒井としては、あの時、言い過ぎたとも思う様子はなく、更に言い足そうとする気配もなく、依然として、威と恩とを備えた主人とし、船長としての態度を保つことに変りはありませんでしたけれど[#「ど」は底本では「で」]も、ひそかに見やるお松の眼には、痛々しいものの映ることを止めることができません。
威厳の人としてのこの主人に、お松は物の哀れをはじめて見出しました。それは甲州以来の昔の思い出が、今までは人の身の上のようにしか思われなかったものが、今は、わが身の上のような気がしてなりません。
そうしてみると、あの朋輩《ほうばい》としての不幸薄命なお君さんという女性の運命の絵巻を、ここに再び繰りひろげて、それを哀れなりと思う心が、泉のように甦《よみがえ》って来ました。本当に自分としては、お君さんを気の毒だと思い、できる限りのお世話はしたつもり。またお君さんの方でも、わたしというものを、本当に唯一無二の、心の底までの打明け相手として許してお
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