、悔恨に似た心で満たされて、思わずホッと息をついた時に、ペンを置いて、インキの壺を満たしかかったお松の眼とぴったり合いました。
駒井もハッとしましたが、お松も思わず胸を轟《とどろ》かせました。
地図を見つめて研究に耽《ふけ》っておいでになるとばっかり信じきっていた主人が、今までじっとわたしの方を見つめておいでになった。しかも、その眼の中には、解釈のできない深い思いが籠《こも》っていて、ただ研究に疲れたお眼をそらすために、あらぬ方を向いておいでになったものとは思われない。たしかに自分というものに視点を注がれて、じっと思い込んでおいでになったそのお心持は、不意にわたしの眼とかち合ったあの瞬間の狼狽《ろうばい》ぶりでよくわかる。
お松はその時に、思わず面が真赤になりました。
今まで、尊敬すべき主人として、二心なく働いていたし、また、こういう御主人の下に働き得ることに、精一杯の満足を捧げていたのですから、いかに接近して、いかに立入ったお仕事の相手をしようとも、自分としては、ちっとも心の動揺を感じたことはなし、また殿様も、女性として、人間として、わたしをごらんなさるほどに人情に近い方ではないから、単に、この中で最も役立つ女という実用一方のお取扱いとのみ信じていたから、そこになんらの隔意というものはありませんでしたが、この時は違いました。
お松は何の故に、駒井の殿様が、今更あんなにわたしを御注視なすっていらしったか、その心のうちを知るに苦しみました。そうして、その瞬間に、使われ人としての自分でなく、女性としての己《おの》れを発見したものですから、我知らず狼狽して、ホッと上気してしまったこの心持が、自分ながらわからない。恥かしいとは思いましたが、ただ恥かしいでは隠しきれないバツがあって、そこは賢い女ですから、取紛《とりまぎ》らすように心を立て直し、言葉を改めて駒井に向って言いました。
「殿様、御気分でもお悪いのでございますか」
さし止められている殿様という言葉が、この時、思わず口を突いて出てしまったことは、その心が、昔の思い出に占められていたからです。秘書としてのお松ではなく、処女としてのお松でありました。
「いや、別に気分が悪いことはないが、少し考えさせられることがあってね」
「まあ、お考えあそばすことは、あなた様の始終のお仕事ではございませんか、いまさら考えごとを
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