ちがおえらいの?」
「小栗と、勝と、どっちがえらい? とわしに聞くのか。変な質問を出したもんだなあ。いったい、お前が今日に限って、そんな柄にもないことを聞き出す、その了見方から聞きたい」
「まあ、いいから、わたしの質問だけに答えて頂戴――わけはあとでお話しするから。ねえ、勝様と小栗様と、どちらがえらいのですか、それを聞かせて頂戴よう」
「勝がエライか、小栗がエライか、おれはそんなことは知らん、だが、旗本の地位からいうと、二人は比較にならん、小栗は東照権現以来の名家だが、勝というのはドコの馬の骨か、このごろになって漸《ようや》く名が出たばっかりなんだ」
「お家柄は別としましてね、人物はどちらが上なんです」
「そりゃ、わからん、小栗は名家の末だからといって、当人が馬鹿では今の役はつとまるまいし、勝はまた無名のところから成り上ったくらいだから、相当の手腕がある奴だろう」
「同じお旗本のうちでも、その小栗様と、勝様とが、合わないんですってね、小栗様は徳川家を立てようとなさるし、勝様は薩摩と組んで、徳川家をつぶそうとしておいでなさるんですってね」
「そんなことがあるものか、小栗でなくったって、誰だって、旗本で徳川家を立てようとしない奴があるか、勝が薩摩と組んで徳川を潰《つぶ》すなんぞと、誰がお前に言った」
「誰いうとなく、そういった噂《うわさ》が聞えていますのよ、勝は奸物《かんぶつ》ですって」
「勝は奸物? 鰹節《かつおぶし》は乾物という洒落《しゃれ》だろう、勝だってなんだって、徳川家の禄を食《は》みながら、徳川家の不為《ふため》をはかる奴なんぞがあろうはずはないが、そこは時勢だ、傾き切った屋台骨を踏まえている身になってみると、いろいろの誹謗《ひぼう》が出るのはやむを得まい、井伊掃部頭《いいかもんのかみ》を見てもわかることだわな」
「それは、そうでしょう。では小栗様は小栗様、勝様は勝様として置いて、いったい、今の徳川様の天下をねらっている相手は誰なの」
「それは、薩摩と長州よ」
「そうなんでしょう、その薩摩と長州が、つまり徳川様の天下を倒そうとなさるんでしょう、それをそうはさせないと、小栗様や勝様が力んでいらっしゃるのですわね」
「勝と小栗に限ったことではないが、まず旗本では、あいつらが代表している」
「つまりは、薩摩や長州を相手に戦争ということになるわね。戦《いくさ》となると、兵隊さんがいります、その兵隊さんをたくさんに持った方が勝ち、兵隊さんをたくさんに持って、調練をみっちりとさせ、鉄砲や軍艦をふんだんに持った方が勝ち、それをしなければ、これからの戦争には勝てないんですってね。そこで、先立つものはやっぱりお金――そのお金が、上方にも、お江戸にも、今はないのですってね。お江戸では、権現様以来蓄えた莫大なお財《たから》も、もう使い果してしまったし、上方でも、どのお大名も内緒はみんな火の車。ですから、人には不足はないが、お金の戦争。そこへ行くと、異人さんが途方もないお金を持っている、そのお金を貸したがっている、そこで、つまりは異人さんを味方につけた方が勝つ、という理窟になるのじゃない?」
「さすがに、築地通いをしているだけに、見識が広大になったものだ――金ばかりじゃ戦はできないよ、第一、士気というものが弛《ゆる》んでいた日にゃ戦争はできない、その次が兵糧、その次が金だ」
「まあお聞きなさい、異人さんはね、そこのところへ目をつけて、日本へお金を貸したがってるんですとさ。それでね、上方の方へはイギリスという国が金主につき、お江戸の方へはフランスという国が金主について、お金をドンドン貸出して戦《いくさ》をさせることになっているんですとさ」
「ばかげた噂だ、毛唐を金主に頼めば、毛唐に頭が上らなくなる、日本を抵当にして、一六勝負を争うようなもんだから、どんなに貧乏したって、毛唐の金で戦ができるか」
「でも、お金は借りたって、返しさえすれば、国を渡さなくても済むんでしょう、貸すというものはどんどん借りて置いて、済《な》せる時に済せばいいじゃないの、戦に勝つ見込みさえつけば、ちっとは高利の金を借りたって直ぐに埋まるでしょう。もし負ければ借りっぱなし、負けた方から取ろうったって、それは貸した方の無理よ。戦争に金貸しをしようというくらいの異人は、太っ腹の山師なんでしょう、そのくらいのあきらめはついていないはずはないから、こんな時節には、貸そうというものを借りないのは嘘よ。で、上方でも、ずいぶんイギリスという国から借りる相談が出来ているという話ですし、こちらでも、小栗様なんぞは、このごろ、六百万両というお金をフランスから借りることになったんですってね、これはごくごく内密《ないしょ》なんですけれども、わたしは確かな筋から聞きました」
「ナニ、小栗がフランスから六百万両を借りる!」
神尾は複雑な意味で、驚異の叫びを立てましたけれども、お絹の頭は単純な貸借関係と、金額の数字の多少だけのもの。
「ここで、あなた、駒井様あたりがその間に立って、異人さんと口を利《き》くには打ってつけのお方じゃありませんか、あんなお方が一口|立会《たちあい》をなされば、あなた、六百万の一割のさやをいただいても六十万両――万事その伝なんですから、異人さん相手に大物をこなしさえすれば、濡手《ぬれて》で粟《あわ》の手数料――うまく当れば、あなた江戸一、三井や、鴻池を凌《しの》ぐ長者にもなれようというのは、今の時勢を措《お》いてはありません。それを知りつつ、洋学が出来ないばっかりで、宝の庫に入りながら、指を銜《くわ》えて、みすみす儲け口を取逃がしてしまうのが残念でなりません」
七十三
お絹は今日は、これだけのことを話して帰りました。
洋学の出来ない恨みを、おれに向って晴らしに来たようなものだが、それはたしかにお門違いだ、当然、駒井甚三郎のところへ持って行かねばならぬものを、戸惑いしておれのところへ来た。
だが、考えてみると、女というやつの考え方は、今に始めぬことだが浅どいものだ。洋学の知識というものも、畢竟《ひっきょう》ずるに、金を儲けるか儲けないかのために必要なので、それ以外には、てんであの女の頭にない。おれは洋学は嫌いで、駒井の奴はドコまでも好かない奴だが、まさか駒井だって、才取《さいと》りをするために洋学に志したのではあるまい。あの女は、金にさえなれば洋妾《ラシャメン》にもなり兼ねない女なんだから、駒井や我輩も同様に、学問そのものを利用して、大きな才取りができれば、それが専《もっぱ》ら功名だと心得ている。実にタワイないものだ、浅ましいものだ。だが、そのタワイのない、浅ましいところが、あいつの身上で、あれが、なまじい賢婦ぶりをし、烈女気取りをはじめたら、もう取るところはない。あれはあれでいいんだが、さて、これはこれでいいのか。
今、あいつが、附けたりで口走って行ったところに、聞捨てのならないものがある。聞捨てにすべきところが、聞捨てにならない。本末も、始終も、見境のない女のことだから、その本論は憫笑すべく、その附けたりは傾聴すべしか。というのは、ああいう女が無心で受けて来る巷《ちまた》の声というやつに、案外、時代の政治が反映して来るものだ。
小栗と、勝と、どっちがエライ。そんなことは鼻垂小僧のする質問だが、勝が薩摩と組んで、主家の徳川を倒そうとしている。小栗が金を外国から借りて、宗家のために戦おうとしている。この風聞は聞きのがせないぞ、たとえ市《まち》の偶語とはいえ、その拠《よ》るところは根が深そうだ。
勝が奸物《かんぶつ》だという評判は、つまり彼が外交に苦心しているところなんだろう。小栗が軍用金を集めるということは、彼が主戦論の代表だということに、そのままそっくり受取れる。世が末になると、その二派はいつの時代にもあることだ。和戦両様の派が対立して、内輪喧嘩を内攻する。支那の宋の世の滅びた時の朝廷の内外が、つまりその鮮かな一例だ。おれは勝を一概に奸物と見たくないが、小栗の腹には無条件で納得する。彼の家は家康以来の名家で、いつも戦《いくさ》の時は一番槍を他に譲らぬというところから、家康の口から、又一番、又一番槍はその方か、又一、又一の渾名《あだな》が本名となった祖先の勇武の血をついでいる男だが、現今は勘定奉行をつとめていると聞いた。勘定奉行は重任だ、大蔵卿だからな。公卿《くげ》の大蔵卿は名前倒れの看板だが、傾きかけた幕府の大台所を一手に賄《まかな》う役目は重いよ、辛いよ。小《こ》っ旗本《ぱたもと》の家にしてからが、勘定方は辛いぞ。ドコの大名も困っている、五万石、十万石の大名の家の台所をあずかる身も辛いが、八百万石の天下取りの台所の傾きかかったのを支えるというのは大抵じゃない、少なくともおれにはやれない。
小栗はこれを引受けて、これから、いざという時の軍用金、重々容易な苦心であるまいことも察するよ。金がなければ戦はできない、勿論のことだ、だが金だけで戦ができるものじゃない。第一、士気が振わなければ戦はできない、それから兵糧、それから金、と今も女に言って聞かせたのだが、さて実際、今の徳川に当てハメて見ると、この条件が叶っているかいないか、と念を押すまでもない、士気といったらごらんの通り、恥かしながらこの神尾主膳の如きが代表の一人かも知れぬ。食糧の点も、諸国の大名との交通に差しさわりがなく、幕下の知行が今のままなら何のことはあるまいけれども、いざ戦争となれば、天下が乱れて諸道が塞がる、江戸そのものの食糧が上ったりになりはしないか。金ときた日には――徳川家康は金を持っていたが、豊臣秀吉も金を持っていたぞ、天下を取る奴はみんな金を持っていた。金持がキッと天下を取るというわけではないが、金のない奴には大仕事はできない。いやいや大仕事をする奴は金運というものが向いて来るものなんだ、時運が盛んで、英気が溢《あふ》れていると、苦心しなくとも金なんぞは向うから集まって来るが、落ち目になると、ある金も逃げて行くよ。
おれも貧乏だが、徳川の宗家も貧乏だよ。その傾きかかった宗家を支えて、戦争の一つもしようというには、先立つものは金だ。金だと言ったところで、生やさしいものではない。勝のおやじや、おれなんぞは、千三《せんみつ》をやっても、質草をはたいても、やりくりはつこうというものだが、宗家の台所となるとそうはいかない。天下を二つにわけて、最期《さいご》の合戦に堪えるだけの用意――それには毛唐の財布を借りなければいかないのか。
まさか、小栗だって、国というものを抵当に置いて、毛唐から借金するまでに血迷いはすまい。毛唐の力を借りて徳川を立ててみたところで、日本という国が毛唐の下風に立つようになってはおしまいだ。あの女の言うところによると、幕府の方の後ろの金方はフランス、長州薩摩の方はイギリスだとのことだが、長州や薩摩だって同様だ、徳川が憎いからといって、毛唐に国を売るような振舞はすまい。
だが、意地となると、どういう番狂わせが出来るか知れたものでない。今時きっての知恵者だという勝安房は、いったい、どういう考えを持っているのか。おれは一概にあいつを奸物だとは見たくないのだ。彼の本意を聞いてみたいものではないか。
且つまた、小栗のはらがドコまで据わっているか、これも一番見届けたいものではないか。
その他、いよいよという時に頼みになる奴は、ドコの誰で、どうしている。
神尾が、しばし眼をつぶって沈思の体《てい》であったが、やがて開いた眼を落すと、読みさした「夢酔独言」の上に落ちて来る。
以前ほど気乗りはしないが、とにかく、もうあと少しだ、読んでしまってみてやろうという気になって、丁をめくってみましたが、もはや心が全く書物の上から移ったようで、それでも、眼はその文字の上を惰力的に追っている。
七十四
神尾主膳は、せっかく興味をもって読みつづいていた勝の親父の自叙伝を、さきにはビタが来て妨げ、今はお絹が来て中断されたが、さきのビタは問題にならず
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