メニ松平内記ノ家中松浦勘次ヲトモニ連レテ、下総カラ諸所歩イタ道ニ、他流ヘ行キテツカイツツ行ッタガ、先年ヨリ居候共ヲ多ク出シタ故、ソレガ徳ニナッテ路銀モ遣ワズニ諸所ヲ見テ来タ、銚子ニテ足ガ痛ンダカラ、勘次ヲ上総房州ノ方ヘ約束シタ所ヘヤッテ、オレハ銚子ノ広ヤカラ舟デ江戸ヘ送ッテクレタカラ、寝ナガラウチヘ帰ッタ、ソレカラ毎日毎日、浄ルリヲ聞イテ浅草辺カラ下谷辺ヲ歩イテ、楽シミニシテ居タガ、六月カ五月末カト思ッタガ、九州ヨリ虎ガ兄弟ガ江戸ヘキタカラ、毎日毎日、行通イシテ、世話ヲシテ、江戸ヲ見セテ歩イタ、虎ノ兄ノ金十郎トイウ男ハ、万事オレ次第ニナッテ居ルカラ、大ガイオレノウチヘトメテ居タガ、或日、吉原ニワカ[#「ニワカ」に傍点]ヲ見ニ行ッタ晩、馬道デ喧嘩ヲシテ見セタラ金十郎ハコワガッタ、金十郎ハ国デハアバレ者ト云ッタガ、江戸ヘ来テハツマラヌ男デアッタ、八月末ニ九州ヘ帰ルカラ、川崎マデ送ッテ別レタ」
[#ここで字下げ終わり]
島田虎之助が当時での剣術ということは、神尾主膳も聞いて知ってはいるが、その島田の虎も、勝のおやじにかかっては、いやはや――しかしこんなに書きなぐるのは表面で、内心は勝のおやじも、たしかに島田に敬服したればこそ、この男を、悴《せがれ》の師匠に見立てて、みっちり修行をさせたのだ。そういう厳粛な方面は、この自叙伝には書いてないが、そこが、おやじの親心で、悴のためを思うことは、一時気違いと言われたほどだから、表面の磊落《らいらく》ばかりを見てはいけない。この馬鹿親爺の息子が、今では徳川の天下を背負って立とうというのは、この親爺の細心な方面と、この島田の虎の仕込みのあたりを、別の頭と眼で見直さなければならない!
おれなんぞは――と神尾は、いつも身に引きくらべて見る。それはこの自叙伝が、雰囲気から言っても、どうらくから言っても、神尾の身に引きくらべて読むに最も都合よく出来ている――おれなんぞも、武術の方は、いい師匠を取って、相当に仕込まれたのだが、親爺がこんな馬鹿者でなかったためにしくじった。虎のような名剣師に就かなかったのが、まあ残念といえば残念のようなものだ。江戸者に生れて、身をあやまるも、身を立つるも、ほんの皮一重のものだよ――おれに子供でもあったらば……
神尾主膳も、こんなように娑婆《しゃば》っ気《け》にまで誘発されて、しばらく三ツ眼を休めて考えている時、
「あなた、何を読んでらっしゃるの」
不意に隔ての襖《ふすま》をあけて、スラリとそこへ立っているのは、今日は姥桜《うばざくら》に水の滴るような丸髷姿《まるまげすがた》のお絹でありました。
七十一
襖越しに突立ったままで、嫣然《にっこり》として、
「あなた、何を読んでらっしゃるの」
ずいぶん、なめた行儀であるけれども、神尾にはそれがおこれない。ビタにしたように、無雑作《むぞうさ》にはこの女が扱えない。
「うむ、なに、その、ちっとばかり読んでいるところだよ」
何を読んでいるのかと、これ以上はお絹が突っこまない。何を読もうとこの女には、読書というものが、あまり頭にない。
「ねえ、あなた――」
と、お絹が甘ったれた口調で言いました。甘ったれた口調ではない、これが本来この女の本調子なのですが、これを聞くと、神尾の血がグッと下って来る。
突立ったままの大丸髷で、だらしのない立ち姿をしながら、「ねえ、あなた――」それを神尾がおこれない。
こんななめきった行儀をされても、こんな甘ったるい言葉づかいをされても、つむじ曲りの神尾主膳が、どうしても腹を立つ気になれないのは、今にはじまったことではないのです。これが昨今になると、一層、身にこたえて来たようで歯痒《はがゆ》い。
この女だけが、親爺の残してくれた唯一の遺産だ、いつも、神尾がこの女にさわると、むらむらとそれを受身にとって来る。この女は父の寵者《おもいもの》であった、父のお妾《めかけ》であった。今日となっては、父祖以来残された財産とては何一つ身についたものはない、いや、財産だけではない、父の代から出入りの恩顧を受けたという者共が、誰ひとり寄りつきもしないのに、この女だけが、自分の影身についていてくれる。忠義でかしずいていてくれるわけでもなかろう、切っても切れない腐れ縁の一つかなにか知らないが、それにしても、広い世界に自分の身うちといっては、考えてみると、この女ばっかりだったなあ。
神尾主膳はこの女を母とは、どうしても思えないが、姉とは受取れる。姉としては、いかさまふしだらな、甘ったる過ぎた姉ではあるが、姉の気分はいくらか滲《にじ》んでいるというものだ。姉の愛といったようなものを幾分ながら漂わせて、これを尊敬して見るという立場ではない。なあに――親爺の寵者《おもいもの》だ、親爺の召使の一人だから、自分にも召使の分限だ――という主人気取りは多分に残されてあるが、さて、この女に対すると、どうも一目を置きたがる。我儘《わがまま》一ぱいを仕つくしても、この女がおこらない、姉気取りで自分を抱擁しようとするところに圧迫を感じながらも、よし、思う存分にこの女を虐待しても、女がおこらないし、また自分が、どんなに他の女狂いを働いてみたところで、この女は笑っている。姉として、自分の放蕩《ほうとう》を叱るようなことはついぞ一度もなかったが、いろいろの女狂いも、こっちが飽きたり、向うが逃げたりしているうちに、最後までこの女は、自分の面倒を見る。自分をあやなしきって、切れも離れもしないところが乙だ。
妙なもので、こんな我儘一ぱいに振舞える相手だが、自分が女狂いをする時は忘れてしまっているのに、この女が、ちょっと外へ出たり、また外泊なんぞをした場合には、神尾の心頭が異様に乱れ出して来るのである。それが近ごろは、だんだん嵩《こう》じて来た。お絹が水性《みずしょう》であることは万々承知で出してやりながら、あとに残された時に、神尾の胸が怪しく騒ぎ出して来るのです。
なあに、親爺の寵者で、うちの召使なんだ、おれのいろではあるまいし、おれもまずほかに女がいないではあるまいし、あいつに惚《ほ》れてもなんでもいるんではないが、いなくなると心がいらいらする、焦《じ》れて焦れてたまらない、しまいには血の気が頭に上って、「浮気者にも程がある、明朝帰って来たらただは置かぬぞ」という、物すごい気分にまで上ずって来ることもあるが、さて、朝になって帰って来て、「ねえ、あなた」なんぞとやられると、神尾の頭へ上った血が不思議にグッと下ってしまう。骨までぐんにゃりとされるような重し[#「重し」に傍点]がのしかかって、神尾は自分ながら、その甘ったるさ加減に腹が立つ。帰ったらブチのめしてもくれよう、次第によっては、親爺になり代って刀の錆《さび》にまでと意気ごんだものが、だらしない格好で、すましこんで、「ねえ、あなた――」とやられると、自分はどうにもはや、昔の「お坊ちゃま」にされてしまう。硬《かた》くて歯が立たないならいいが、搗《つ》きたての餅のように軟らか過ぎて歯が立たない。その度毎に、神尾は自分を歯痒がったり、腑甲斐《ふがい》ないと自奮してみたりする気になるが、さて面と向うと、どうにもならないのが癪《しゃく》だ。
「何だい――」
と受答え、自分の声は苦りきったつもりでも、いつしか、甘ったるい、舌たるいものになっている。
癪だ。
お絹は、神尾のそんな気分を知るや知らずや、
「あのねえ、駒井能登守様――あの方、このごろ、どうしていらっしゃるでしょう、御様子をお聞きにならない?」
「うむ、駒井か」
と神尾が、こうと言われて何となく胸を圧《お》されるように思いました。ここで突然、駒井の名を聞くことは甘ったるいことではない。忘れていた古創《ふるきず》が不意に痛み出して来たような思いで、
「駒井能登か、知らんなあ、その後、どうしているかなあ」
「あのお方をあやまらせたのは、あなたの罪ね」
「いいや、そんなこたあないよ、駒井自身の越度《おちど》だから、どうも仕方がない」
「でも、あなたがいて、あんなになさらなければ、駒井様は御無事でしたに違いないわ」
「うむ、おれのためじゃないよ、女のためだよ、駒井の奴め、あれで女にのろいもんだから、そこに隙《すき》があったんだ。隙のあったところを相手にやられたのは、相手の罪じゃない、隙をこしらえた奴の罪なんだ」
「どちらがどうか存じませんが、およそ、隙のない人間てありませんからね。駒井様の隙なんかは、同情して上げてよい隙なんでしょう。過ぎたことは仕方がありませんね。それにしてもあの方、今どうしていらっしゃるでしょう」
「イヤに今日に限って駒井に気を持つじゃないか」
「少し伺いたいことがありますから」
「ふむ、いまさら駒井に、何を聞きたい」
「あの方、たいそう洋学がお出来になるんですってね」
「うむ、そのことか。洋学、あれは出来るよ、あれが表芸なんだ、洋学だけは相当にやれると自他ともに許していたよ」
「惜しいわね」
「何が惜しい」
「それほど洋学がお出来になるのに」
「洋学なんぞは、毛唐の学問だ」
と、神尾が取って投げるように言いました。洋学が毛唐の学問であることは、神尾に聞かなくても、お絹でさえよくわかっている。
「惜しいわね、それほど洋学がお出来になるのに」
「何が惜しいんだよ」
「でも、当節、洋学がお出来になれば、お金儲《かねもう》けはお望み次第なのに」
「洋学が出来れば金儲けは望み次第? それで駒井のいないのが、宝の持腐れだというコケ惜しみか」
「そうよ、わたし、このごろ、つくづくそう思いますわ、もし、わたしに少しでも横文字が読め、達者に異人さんと話ができたら、どんなにお金儲けができますか、ちょっとやそっとのお金儲けではございませんのよ、何十万というお金儲け……」
「ふん、毛唐だって、そう甘い奴ばかりはあるまい、日本の金と土を取りたがって来ている奴等だ、洋学が出来たからというて、ペロが喋《しゃべ》れるからといって、お前が甘く見るほど相手は馬鹿でない」
「ところが、あなた、それが違うんですよ、日本人と見ると、むやみにお金を蒔《ま》きたがっている異人さんがあるから妙じゃありませんか、それも、相手次第によっては何万とまとまったお金を未練会釈なしに融通してくれる異人さんを、わたしはずいぶん知っていますよ」
「それを知っているなら、お前、遠慮なく拝借をしといたらいいじゃないか」
「わたしでは駄目、女では信用がないから」
「では、おれの名前でよろしければ貸して上げてもいい」
「あなたではなお駄目――駒井様あたりだと確かなものなんですがね」
「ふーむ、えらく踏み倒されたものだな――おれと駒井の相場がそれほど違うかな」
「違いますとも、あなたなんかはさかさに振っても鼻血も出やしないけれど、駒井様なら洋学もお出来になるし」
「洋学が出来さえすれば、毛唐は誰にでも金を貸すのか」
「洋学が出来て、御身分の保証がおありなされば、何万、何十万、何百万とまとまったお金を、右から左へ貸してくれますのよ」
「それはまた桁《けた》が大きいなあ、何万はいいが、何百万は事が大きいぞ」
「まあ、お聞きなさい、決して夢じゃありませんから」
ここまで、立ち姿、襖越《ふすまご》しで話しかけていたお絹が、ずかずかと入りこんで来て、神尾の火鉢の前へ坐り、無雑作に白い手をさしのべて神尾の拳《こぶし》にさわるほど、親密に意気ごんで話を持ち込みました。
七十二
お絹は白い手を火鉢の前にかざして、神尾の手をなぶるような仕草をしながら、
「ねえ、あなた、小栗上野様《おぐりこうずけさま》を御存じ?」
「何だい、また人別《にんべつ》が変って来たな、今は駒井能登の戸籍しらべだが、今度は小栗上野と変って来た!」
「小栗様、御存じなの?」
「知ってるよ。知ってると言ったところで、親密という間柄ではないが、若い時はおたがいに見知り越しだ」
「では、もう一つ、勝安房様《かつあわさま》を御存じ?」
「勝――それは知らん」
「小栗上野様と、勝安房様と、どっ
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