ありません。では、ね、宇津木さん、たった一つ、わたしの頼みを聞いて頂戴」
「何ですか」
「今晩一晩だけ、泊っていらっしゃい、ね、いくら何でも、話がきまったから、今日この場でお別れなんて、考えるにも考えられやしないわ、別れたあとのわたしは、血を吐いて死ぬばかりなんでしょう、ですから、わたしに、あきらめの時間を与えて下さいな、長いことは申しません、たった一晩だけ、お立ちを明日に延ばして下さい、ただ、それだけのお頼みよ、そのくらいは聞いて下さるでしょうね、それをお聞き下さらなければ、わたしにも、わたしとしての了簡《りょうけん》があってよ」
「ふーむ」
と、ここに至って兵馬は、最初の如く、決然として進退を宣告する言葉が出ませんでした。
その躊躇《ちゅうちょ》した瞬間を見て取った福松は、ようやくこっちのものという気分を取り返しでもしたかのように、
「ね、それは聞いて下さるわね、今晩一晩だけ、ゆっくり話し合って、尽きぬ別れというのを、惜しみ惜しまれた上で、これでおたがいに、もう愚痴もこぼさず、未練を言わず、綺麗《きれい》に別れましょうよ。別れてしまえばあとのことはわかりません、今晩一晩が一生の御縁のあるところよ。ね、そうして下さいよ、わたしが、そのように取計らってしまうわよ。それにはいいことがあるんです、この福井の御城下から、ちょっと離れたところに、あわら[#「あわら」に傍点]という誰も知らないお湯が湧くところがあるんだそうです、つい近頃、近所の人が掘り当てたけれども、土地の人だけしか知らない、それを、わたしの御贔屓《ごひいき》のいま申し上げた親分さんが、ほんの仮普請をして、ごく懇意の人だけ湯治をするように仕かけてあるんですとさ、そこを、わたしが話して一日一晩買いきってしまいますから、そうして、あなたと、しんみりと旅のお話をしたり、汗を流しきったりして、最後のお名残《なご》りということに致しましょう。これだけはお聞き下さいね、ようござんすか」
それを聞かなければ化けて出る、とも言い兼ねまじき気色に、兵馬は自分のはらが決まってここまで来ている以上、さのみ末節にかかわるべきでもないと、沈黙していました。沈黙は、つまり女の提議に無言の同意のものと受取ったから、女はまたも元気を取りもどしてはしゃぎかけました、
「ほんとに、白山白水谷の旅では、あたしがあなたに負けました、一度、あなたを降参させてみたいと秘術――ではない、心づくしの限りを見せたつもりなんですけれど、あなたはついに落ちなかったわよ、えらいわねえ、ほんとにえらいのよ、あたしの腕も、面《かお》も、あなたの潔白の前に廃《すた》りましたわ。でも、男に負ける分には負けても恥にはならない、男一人を落さなければ、女の後生《ごしょう》にはなりますねえ――今晩の、あわら[#「あわら」に傍点]のお湯の宿は、もうそんないやらしいことのない、罪のない、親身の姉と弟の気分で、生涯の名残りを惜しみましょうよ。嬉しい、嬉しい、たった一晩でも、わたしは嬉しい」
道中での思わせぶりは、多分のイヤ味もあったし、若干の真実もあって、兵馬も心得て、これに応対し、その応対そのものもまた、人生の行路の一つの修行底とも見なして、隙間なき用心のもとに、それを扱って来たから、兵馬の心にも油断はなかったけれども、今ここで、この女がムキ出しに懐かしがったり、有難がったりして、そわそわ、わくわくする心持には、女としての天真の流露もある、子供同士の気分に帰ったようなものでもあるし、それには警戒の不安もなく、いや味の禁忌もないことに動かされて、兵馬も、この女と最後の一夜の水入らずの名残りを惜しむの時間が惜しいとも思われませんでした。そうすると、女というものが別な女になって、海千山千の股旅者ではない、純な処女の人情として扱うことの、何となしの魅力を、兵馬が改めて感得したものと見えて、気持よく言いました、
「よろしい、最後の一夜を明かしましょう、出立は一日延ばしてあげます」
「まあ嬉しい、嬉しい」
女は飛び立って悦びました。
五十六
ここは、あわら[#「あわら」に傍点]の温泉の一夜。
あわら[#「あわら」に傍点]の温泉は明治の十年に発見されたということだから、その時分はまだ地下に埋もれていた、その仮普請の一夜。
福松の言う相当の顔役が言っていた、旦那衆もてなしの数寄《すき》をこらした仮構《かりがまえ》に、庭も広いし、四辺《あたり》の気遣《きづか》いはなし。
そこで、兵馬はドテラに着替えて、福松も粋《いき》な浴衣《ゆかた》の一夜、兵馬が改まって、
「では、道中お預かりの品、ここでしかとお渡し申す、お受取り下さい」
行李《こうり》の中から取り出して、福松の眼の前に置いたのは、金包、すなわち問題の三百両の大金であります。
「それは、いただきません、これはわたしのものではございません」
そこで、問題の三百両の大金を前にして、二人の間に辞譲の押問答がはじまりました。
兵馬は、これはたしかに福松への授かり物で、本来は、代官の胡見沢《くるみざわ》が百姓をしぼって淫婦お蘭に入れ揚げた金だから、それが偶然の機会で福松の手に落ちたのは、すなわち授かり物であって、お金のためから言っても、淫婦の手に渡って湯水のように使われるよりは、福松の手に使われた方が有利にもなり、人助けにもなる、ほかへはドコへ持って行き場のない金、つまり天の与うる物を取らざれば、わざわいその身に及ぶというようなことを説いて――それは寧《むし》ろ福松の最初からの口伝《くでん》のようなものですけれども、それを繰返して述べて、福松に渡そうとすると、福松がそれを押し返して、なるほど、それはそうに違いないでしょう、わたしとしても、自分が汗水で儲《もう》けた金とは思わないけれども、それにしても馬鹿正直に届ける必要のないお金、もとへ返す便りもないし、もとへ返すよりは、こちらで有効につかった方が、身のためにも、人のためにもなるというもの。そこに義理を立てるつもりはないと思って、いっそ、この金のある限り、二人で旅をしてみたいなんぞと仇《あだ》し心が出ないことはなかったが、今のわたしの身になってみると、もう、そんなお金はいらない、身の振り方がきまってみると、あとはお財《たから》は腕から出て来る、そこは憚《はばか》りながら芸が身を助ける自分の力、これから先に大金は用があって要がない。
それに比べると、あなたはこれから、やっぱり旅。いくら有っても邪魔にならないのは、お財というもの、これはあなたがお使いなさるが当然のお駄賃。
心から福松は、そういう観念で、兵馬にまた三百両の大金を押し返し、押しすすめましたけれども、それを、そうかと言って、翻って受け納める兵馬ではありません。
なるほど、一応それは聞えるけれども、拙者は男子一匹、天涯一剣の身、路用があればあるで心強いには相違ないが、なかったところで、相当助力の友は到るところにあって、更に窮屈というものはない、それよりも、身が定まった、定まったというけれど、とにかく、知らない土地へ来ての一本立ちは、見込み以上に物がいる、まして、相当の顔に立てられれば立てられるように、株の手前もあり、附合いの入目《いりめ》もあるだろう、使えば使い栄えのする金になるのだから、この際、君の用意のためにするがよい――と事をわけて言い聞かせた上に、万一、君が受けないといっても、この種類の金を、拙者が有難く頂戴に及んで、いい気持で遣《つか》い歩けるかどうか考えてみるがよろしい、君がつかえば生きるが、拙者が遣うと男が廃《すた》る――というようなことまで説いて聞かせた上に、
「そういうわけだから、君はこの金でしかるべき芸妓家《げいしゃや》の株を買うようにし給え、それで余ったらば――」
と言って、極めて分別的な、しかも算盤《そろばん》に合う計画を立てて福松に示したのは、このあわら[#「あわら」に傍点]というお湯は、今こそ地中に埋れてはいるが、ゆくゆくこれが世に出ると、北国街道の要害でもあり、絹織物の名産地でもある福井の城下に近い形勝を占めたところだから、大いに繁昌するに相違ない。で、今のうちに多少なりとも地所を買い求めて、ゆくゆく温泉宿でも経営して、老後の安定を心がけてはどうだ。
こういう分別的な、算盤に合う提案をしたものですから、それが福松をうなずかせもし、安心もさせ、あなたというお方は、ほんとに感心なお方、お若いに珍しい、品行がお堅い上に、老巧の年寄も及ばない行末の心配まで、本《もと》からうらまでお気がつかれる、まあ、何という感心なお方でしょうね、こんなお方、どうしてもはなしたくないわ、こんなお若くて、親切で、武芸がお出来になって、品行がよくていらっしゃる、その上、年配の苦労人はだしの分別までお持ちになる、手ばなしたくないわ、離れたくない、こんなお方をはなして人にとられては女の恥よ、女の意地が立たないわよ。ねえ、あなた、もう考え直す余地はなくって、このお金で、芸妓家の株を買い、余ったお金で、このあたりへ土地を買い、そうして、いっそのこと、あなたもこの土地へ納まっておしまいなさいよ。思い直すことはいけませんの、あなたは、あなたの本望がお有りなさるでしょうけれども、その御本望が成功なさったからとて、どうなりますの。
もう一ぺん、思い直して頂戴よ、ここでまた福松が、いたく昂奮して参りました。
別れを惜しんでいると、処女の親しみを感じるけれども、昂奮し出すと、売女《ばいた》のいや味が油のように染《し》み出す。兵馬は、これを迷惑がって、
「馬はいいですか、明朝六つに出立と申しつけて置いてくれましたね」
「いけませんの――思い直しは叶《かな》いませんの、では、あきらめます、いまさら、そういう未練は申し上げられないはずでしたのね、今晩一ばんだけの御縁――」
あきらめられたり、あきらめ兼ねたり――女は三百両の大金の上へ、どっかりと身をくねらせて、やけ半分のような気持で、煙管《きせる》の雁首《がんくび》で煙草盆を引っかけて引寄せ、
「宇津木さん、あなたという人は、女の情合いは知ってらっしゃるが、女の意地というものがわかりませんのねえ」
「一通りはわかっているよ」
兵馬も、自分が純粋無垢の青年だと誇るわけにはゆかない。その昔は江戸での色町で、相当な疚《やま》しい思い出がないとは言えないから、いささか恐れていると、女が、
「では、ほんの一くさり、わたしの身の上話を聞いて頂戴な、わたしののろけ[#「のろけ」に傍点]を受けて見て頂戴、今晩のは真剣よ」
女は、もうまさしく畜生谷のほとり近い女にかえっている。兵馬はそれに怖れを感じ出しました。女はいよいよ自暴《やけ》気分に煙草を吹かしながら、
「身の上話なんて野暮《やぼ》なくりごとをやめましょう、未来のことを話しましょうね。それにしてもあたし、福松て名はドコへ行っても変えないことよ、それは、あなたにわかり易《やす》いために、何家の福松っておたずねになれば、すぐにドコのドの小路《こうじ》にいるということが、すぐにわかるように、福松って名はいつまでも変えないわ。屋号は前の株で何となるかわからないけれど、新しく自前《じまえ》になれたら、何とつけましょうねえ、そうそう、『宇津《うつ》の家《や》』とつけましょう、それがいいわ、宇津と御本名をそのままいただいては恐れが多いから、かな[#「かな」に傍点]でねえ、かな[#「かな」に傍点]で『うつの家の福松』といいでしょう、こんど福井へおいでになったら、何を置いても、『うつの家の福松』をたずねておいでなさい。こんどというこんどがいつになるでしょう、一月ぐらい待ちましょう、金沢へなり、京都へなり、おいでになったお帰りを待っています――うつの家の福松の御神燈を忘れちゃイヤよ。それからねえ、いつまでも看板を揚げて、御神燈の下ばかり明るくしても仕方がない、そのうちに足を洗いますよ、せいぜいここ一二年がところ稼《かせ》いで、それからあなたのおっしゃる通り、このあわら[#「あわら」に傍点]の温
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