取納めんとする刹那《せつな》、物蔭よりむらむらばっと現われ出でた、新撰組の壮士四十余名!
 兼ねて期したることながら、ここで入り交っての乱刃。
 前に言う如く、この夜は、月光|燦《さん》として鏡の如き宵であったから、敵も味方も、ありありとたがいの面を見ることができる。
 以前は同じ釜の飯を食った間柄とは言いながら、こうなると、名を惜しみ腕を誇るの気概が、猛然として全身に湧き上って来る。
 四十余人の新撰組はみな鎖をつけていた。七名の御陵衛士は、服部を除く外はみな素肌であったこと前に申す通り。
 鳴りをしずめて待構えていた新撰組に隙間のあろうはずはなかったが、来り戦う七名の壮士も武装こそしないが、いずれも覚悟の上には寸分の隙もない。
 所は京都七条油小路、時は慶応三年十一月十八日の夜――新撰組の方で、角の蕎麦屋《そばや》に見張りの役をつとめていた永倉新八と原田佐之助――これは鉄砲の用意までしていたということである。
 御陵衛士隊の一行がやって来る方向だけの兵を解いて置いて、そのほかは三方ともに固めている。三方を固めたといっても、特に要塞を築いたわけではなし、野戦の利を得た広野へ導いたわけでもない。いずれも連なる京の町家並、商家はすっかり戸を下ろしている。知らずして寝ているのか、知ってそうして戦慄の下に息を殺しているのか、カタリの音もせず。
 その町家の家毎に兵を伏せて置いた新撰組が、ここで一時に現われて四十余人、覚悟をきめた七名の壮士を押取囲《おっとりかこ》んで、何さえぎる物もなく、器量一ぱいに白刃下にて切結ぶのだから、格闘としては古今無類の純粋な格闘に相違ない。
 同じ夜に、南条、五十嵐の二人は、この場へかけつけて、とある商家の軒に隠れて、その白昼を欺く月光の下に、惻々《そくそく》としてこの活劇を手に取る如く逐一見ていたものらしい。
 鴨川の川べりから、三条橋の橋上に姿を消した二人は、あれから直ちにその見物に間に合った。やりもやったりと舌を振《ふる》って物語る実見譚《じっけんたん》。

         四十六

 これらの会話に花が咲いているところに、いつかは知らず、一人加わり、二人加わり、獅噛大火鉢の周囲が五、七人の人で囲まれて、いとど活気が炭火と共に燃え上りました。
 その連中も、いずれ御多分に洩《も》れぬ壮士浪士、ただし新撰組でもなし、御陵隊でもなし、有籍の諸藩士、無籍の修行人でもなし、いずれも、フリーランサーであるに相違ないと思われる。フリーランサーは英語であって、当時日本の流行語で言えば、脱走者とも、脱藩人ともいう。
 つまり、諸藩を脱走して、おのおのその懐抱するイデオロギーによって自由行動をとる、当時の志ある青年武士である。藩籍にあって知行をいただいていては自由の行動が取れない、よし自由の行動が取れるにしても、その行動が藩主の身上に影響を及ぼすところをおそれて、好んで藩を脱して諸国を放浪して、大言壮語することを職としていた筋目の通る溢《あぶ》れ者《もの》が、当時の社会には充ち満ちておりました。
 期せずして、これらのものが会見して、語り出す日になると談論風発です。天下国家のことから、経世済民のことから、人物|汝南《じょなん》のことから、尊王討幕のことから、攘夷清掃のことに及んで、いつも火の出るような言論戦が行われることはあたりまえであるが、今日は、話のきっかけが見て来た修羅場のことからはじまり、その内容の叙述について、もはや、かなりの弁論時間を要したものですから、架空の議論には及ぶ余暇がなかったのですが、ここで右の叙景談が一応終りを告げると、次に猛然として湧き起るのは、天下国家の談論風発であることは是非もないことです。
「いったい、天下の形勢はどうなるんだ」
「維新[#「維新」に傍点]というのはいったい何を意味するんだ」
 このだいたいの問題が、まだ明答を与えられていない。寄るとさわると、天下の形勢は如何《いかん》、維新の意義は如何ということが、口癖になっていることほど、何人も天下の形勢に不安を感じ、維新の必要を信じている。天下の形勢がかく不安なればこそ、維新の必要が当然であって、維新なきに於ては天下の不安が救われないということは、児童走卒までもこれを信じながら、さて、では今の天下の形勢がドコへ落着いて、維新の新体制はどう組織されるのだという具体観になってみると、識者といえどもこれが明断を下し、明答を与えることができない。
 そこで、右等の壮士連も、天下国家の談に及ぼうとする最初の出立は、ここからはじまるのです。古くして新しいのは、新しく解釈せらるべくして、現状維持の底力が動かないからです。
「いや、天下の形勢も古いものだが、落着く筋道はたいていわかっている、ただ、その筋道が一筋でない、幾筋かあるので迷っているだけのものだ、落着くということになれば、ドレかそのうちの一つに落着く」
「は、は、は」
 誰かが高らかに笑いました。
「落着くところに落着くという結論は、成るようにしか成らぬという論理と同じことなんだ、なりゆき任せに手を拱《きょう》していることができない、落着くべきところに事物を落着かせ、成るべきように国家を成らしめんがためにこそ、我々は身命を顧みず東奔西走しているのだ」
「それはまた至極同感である、同感であるというのは、感服という意味ではない、その意見も、要領を得たようで、要領を得ないことは前者と同じである、すなわち、問題は落着くべきところに物を落着かせるという、その落着くべきところはドコなんだ、成るべきように国家を成らしむという、その成らしむる究竟目的というものを、諸君ははっきりと指示ができるのか――」
 肯定と否定とを同時にして究竟問題を提出した一人の壮士、それを判者面の南条力が、
「君たちは定義を先に立てて置いて、弁証を後にするから、それで徒《いたず》らに抽象にはせて、意余りあって情が尽せないことになるのだ、冷静な逐条審議から出直して見給え、当世流行の科学的というやつで……」
「なるほど、細目をあげて、しかして大綱に及ぶという帰納論法をとって見る方が、斯様《かよう》な時にはわかりが早いかも知れぬ」
「では……」
 南条が咳《せき》ばらいをして、
「いいかい、では、その落着くべきところ[#「落着くべきところ」に傍点]という命題をまず、とっつかまえて俎《まないた》にのぼす――その落着くべき筋道が幾筋もあるということを、さいぜん北山君が言ったが、単に幾筋もあるではいけない、それでは当世流行の科学的ということにならないから、幾筋なんぞとぼかさずに、五筋なら五筋、六筋なら六筋と明確に数を挙げてもらいたい、これも当世流行の数学的というやつで、つまり、昔の塵劫記《じんこうき》で行くのだ」
「そう言われると、そうだなあ、その落着くべき道というのが幾筋あるかなあ」
 正直な北山は、注文をまともに、あれかこれかと胸算用をはじめて、急には埒《らち》が明かないのを南条が突っこんで、
「胸算用はやめて、まず、頭に浮んだ一筋ずつを言って見給え、そうして、一筋ずつ抽《ひ》き出して、抽き尽した後に寄算をしてみれば容易《たやす》くしてくわしい」
「君は算者《さんじゃ》だ」
 北山は、南条の頭のよさに敬服する、南条の頭がいいのではない、自分の頭が鈍に過ぎるのだ、と申しわけたらたらで、勧告された通り、逐条列挙に思考を換え、
「まず、今の天下が落着くべき筋道としては――例を挙げてみるのだよ、そこに落着くのが正しいとか、そこに落着きそうだとかいうの判定ではないよ、例を幾つも挙げてみるんだから、これが拙者の希望であり、意見であるように取られては困るよ」
「そんな申しわけはせんでもいい、早く第一条を言い給え」
「まず、今まで通り徳川の天下に安定するというのが最初の筋道として」
「次は」
「幕府が政権を朝廷に返し奉る、王政復古の筋道」
「次は」
「王政復古が成らずして、畏《かしこ》くも建武の古例を繰返すような事態が到来したとして、いや、そうでなくとも、徳川幕府につづく第二第三の幕府が出来るとして見ると」
「徳川幕府以外の幕府の成立を予想してみる、なるほど」
 更に第四条件にうつろうとする時、横合いから口を出し石井権堂というのが、
「その科学的とやら数学的とやらいうところを、もう一層細かく、単に徳川幕府以外の幕府が、成立とかなんとかの仮定条件では物足りない、徳川幕府に代る幕府が成立するとすれば、誰が代るか、それをひとつ具体的に言ってみてもらいたいな」
「まず、薩摩か」
「まず、長州か」
「毛利だろう」
「島津だろう」
 この二つは動かない、誰も、それを上下したり、左右にしたりして見ることはするが、それ以外のものを加えて見ようとはしない。
 そこで、この席には、薩州論と長州論との談論の枝が出て、その枝がかんじんの話題の幹よりも大きく、広くなりそうで、長と、薩と、徳川家との関係から、関ヶ原以来の歴史にまで遡《さかのぼ》ったり、人物はドチラにいる、いや薩が断然図抜けているという者もあれば、どうして長の方が粒が揃《そろ》っているというものがある、そういうことで談論が鋭化し、感情が昂進して、せっかくの科学的も、数学的もケシ飛んで、鉄拳が飛び兼ねまじき勢いでしたが、座長格の南条がようやく取りしずめて、
「してみると、徳川幕府倒れて、新たに将軍職を襲うものがありとすれば、これは薩州か、長州かのいずれかより起る、その判断には異議はないか」
「異議がないようだ」
「だが、ここになお一つの勢力、お公家《くげ》さんにもエライのがいるぞ、中山卿だの、三条殿、死んだ姉小路――岩倉――大名ばかりを見ていては見る目が偏《かたよ》るぞ」
とさしはさむものがあるかと思うと、一方には、
「いや、まだ大名のうちにも油断のならぬのがいるぞ、土佐、肥前なんぞは、なかなか食えないぞ」
と言う者もありました。

         四十七

「土佐は食えない」
と和するものがあって、薩長論から続いて話壇を占有したものは土佐でありました。
「土佐の国の国論というものは一種不可思議だよ、志は王政の復古にあらず、さりとて幕政の現状維持でもない、どのみち、天下は一大改革をせにゃならんということは心得ているらしいが、その方法として、封建を改めて郡県を立てんとするの意思も相当徹底しているらしいが、それはよろしいが、その手段方策というものが土佐一流で、徳川慶喜《とくがわよしのぶ》をして大政を奉還せしめる、これも異議がない。しかして大政を奉還せしめた後、天下の公卿諸大名から、各藩の英才を徴して新政に参与せしめる、その理想も悪くはないが、さて、その新政体の主脳髄は何という段になると、それが今の慶喜を将軍職を奉還せしめた後、改めて政権の主座に置いて、三百諸侯みな現状維持の下に、つまり藩主を藩知事というものにして、それで、現状維持のままに政《まつりごと》を一新せしめて行こうという案らしい。それが、無用の破綻《はたん》と摩擦を起さずして、しかして体制を一変し、新政の実を挙ぐるに最も妙用であると、土佐ではそう考えているらしい。そういうような意見と運動が、一藩の輿論《よろん》となっているらしい。それだというと、いわゆる公武合体のようなありふれた妥協でもないし、一面は一新の革新意識に触れているし、一面は旧制度の保守にも通じている、ちょっと、まともに反対しようがあるまい。この一藩の輿論の下に、土佐はまず幕府に向って大政奉還運動を働きかけている、徳川氏に向って、早く政権を朝廷に向けて奉還せよ、それが天下の大勢であるし、また徳川氏の社稷《しゃしょく》を保つ最も賢明の方針だ、大政奉還が一刻早ければ早いだけの効能がある、一刻遅ければ遅いだけの損失がある、ということを、あの藩の策士共はしきりに幕府に向って建議勧誘しているそうだ」
「それは利《き》くまい、三百年来の徳川政権を無条件で奉還する、いくら内憂外患|頻発《ひんぱつ》の世の中とはいえ、一戦も交えずして政権を奉還する、そんなことは将軍職としてやれまい、将軍職としては
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