というものを知らない、使いつくしてはじめてお宝の有難味を知るなんて、子供にも劣るわねえ、わたしに使わしてごらんなさい――一生使ってみせるから」
福松は、その都度、こう言って、三百両の金包を撫《な》でて自分の気を引立てたり、兵馬を心強がらせたりしようとする。無論、この三百両の金を、器用に活かして使いさえすれば、ここ幾年というものは、二人がこうして旅を遊んで歩くに不足はない、不足はさせない、という腹が福松にはあるのです。その証拠には、飛騨からここへ山越しをして来る間、若干の日数のうち、いくらの金を要したかと言えば、金は少しもかからない、たまに木樵山《きこりやま》がつ[#「がつ」に傍点]に、ホンのぽっちりお鳥目《ちょうもく》を包んで心づけをしてみれば、彼等は、この存在物を不思議がって、覗眼鏡《のぞきめがね》でも見るように、おずおずとして、受けていいか、返していいか、持扱っている。旅というものは、金のかかるように歩けば際限なく金がかかるけれども、金をかけないつもりで歩けば、全くかけないで歩くことができるもの――いやいや、やりようによってはお宝を儲《もう》けながらの旅、万が一にも行きつまれば、
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