ます。
「鐚か――一ぱい飲みたいと思っていたところだ」
「イケません、せっかく聖賢の書をひもといて善良な感化に落着きあそばそうというその途端に、酒というやつが悪魔! そもそも、和漢をいわず酒を賞すること勝計すべからず、放蕩《ほうとう》の媒《なかだち》、万悪の源、時珍が本草ことごとく能毒を挙げましたが、酒は百薬の長なりと賞《ほ》めて置いて、多く食《くら》えば命《こん》を断ったと言いましたぜ」
「えらく貴様、今日に限って学者ぶるな」
「ちっとばかり学問をして参りやした、時にごらんあそばす聖賢の書はいったい何でござりますな、大学でげすか、論語でげすか。君子に三ツの戒めあり、少之時《わかきとき》は血気|未《いま》だ定まらず、戒しむること色にありス、酒に次いでは色の方をつつしまずんばあるべからず」
「この野郎!」
「この野郎は怖れやす、殿様ともあろうお方のお言葉とも覚えやせん。さて、鐚儀《びたぎ》、今日の推参の次第と申しまするは、決して色の酒のと野暮《やぼ》な諫言立《かんげんだ》てのためにあらず――近来稀れなる風流の御相談を兼ねて参じやした」
「風流――風通《ふうつう》の間違いだろう、風通の一枚もこしらえたいが、銭がねえというところだろう」
主膳も、いささかアクドイ応酬を致しましたが、鐚に於ては洒唖乎《しゃああ》たるもので、
「どう致しやして、衣食足って礼節を知る、古人はいいところを言いやした、鐚儀が不肖ながら食物は今朝アブ玉で、とんとお腹いっぱいこしらえて参じやした、食の方は事足りて余りあり、衣の方に於きましては、これごらんあそばせ、上着が空色の熨斗目《のしめ》で日暮方という代物《しろもの》、昼時分という鳶八丈《とびはちじょう》の取合せが乙じゃあございませんか。それにこれ下着が羊羹色《ようかんいろ》の黒竜門、ゆきたけの不揃《ふぞろ》いなところが自慢でげして、下がこうごうぎと長くて、上へ参るにつれてだんだんに短く、上着は五寸も詰った、もえるのツンツルテン、舶来飛切りでげすよ、羽織がこれ萌黄《もえぎ》の紋綾子《もんりんず》で、肩のあたりが少々|来《きた》っておりまする」
「うむ、なるほど、田舎の貧乏医者という衣裳づけだ、熨斗目が利いているよ」
「かくの通り、衣食足って礼節は、本来ビタの地《じ》にあることなんでげす、現に殿様の御身の上の栄枯盛衰にかかわらず、かくまで忠義の志をかえぬことによって充分に御賢察が願いたい――衣も足り、食も足り、懐ろ工合の方も、当節は異人館出入りのために外貨獲得てやつが成功いたしやして、至極豊かでござりやす、かくて最後に来《きた》るものが風流――その風流の御相談に参じやした」
「まあ、言ってみろ」
「拙《せつ》のお出入りの旦那に三一小僧《さんぴんこぞう》というのがござりやして、その旦那が近頃、和歌に凝り出したと思召《おぼしめ》せ」
「和歌――歌だな」
「いわゆる、みそひともじなんでげす。その旦那が次のような歌をお詠《よ》みになりまして、鐚、どんなもんだ、点をしてくれろとおっしゃる、内心ドキリと参りましたね、実のところ、鐚も十有五にして遊里にはまり、三十にして身代をつぶした功の者でげして、その間《かん》、声色、物まね、潮来《いたこ》、新内、何でもござれ、悪食《あくじき》にかけちゃあ相当なんでげすが、まだ、みそひともじは食べつけねえんでげすが、そこはそれ! 天性の厚化粧、別誂《べつあつら》いの面《つら》の皮でげすから、さりげなくその短冊を拝見の、こう、首を少々横に捻《ひね》りましてな、いささか平貞盛とおいでなすってからに、これはこの新古今述懐の――むにゃむにゃと申して、お見事、お見事、ことに第五の句のところが何とも言えません、と申し上げたところが、ことごとく旦那の御機嫌にかなって、錦水を一席おごっていただきやしたが、実のところ、鐚には歌もヌタもごっちゃでげして、何が何やらわからねえんでげす、後日に至りやして、三一旦那から再度の御吟味を仰せつかった時にテレてしまいますでな、どうか、その御解釈のところを篤と胸に畳んで置きてえんでございます。これがその三一旦那から頂戴に及んだ短冊でげして」
「そうか、貴様が贔屓《ひいき》になる三一旦那というのが和歌を詠んで、貴様に見せた、和歌の和の字も知らない貴様も、旦那のものだから無性に褒《ほ》めて置いたが、中身は何だか一向わからん、それで後日|糺問《きゅうもん》されると困るから、一応おれに見て講義をして置いてくれというわけだな」
「まさに仰せの通り――鐚儀、お弟子入り、お弟子入り」
「どれ見せろ」
と神尾主膳が、鐚の手から短冊を受取って、それを上から読みおろしてみると、
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かながはで、蒸気の船に打乗りて、
一升さげて、南面して行く
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「何
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