泉へ温泉宿を経営いたします、そうして丸髷《まるまげ》に結って、鉄漿《かね》をつけて、帳簿格子の前にちんとおさまって、女中男衆を腮《あご》であしらうおかみさんぶりを早くあなたに見せたい、きっと、遠からぬうちに、そうして見せるわ。どのみち、お約束ですから明朝はあなたを立たせて上げますけれど、お上りにしても、お下りにしても、長くてここ一月の後、この福井へ廻り道をなさらないと恨みますよ、そんなことを言っていると、もう焦《じれ》ったいわ、看板を買い、株を買い、自前になるとかならないとか、そんなこと間緩《まだる》くて仕方がない、今晩からでも廃業して、一本立ちの温泉宿のおかみさんと言われて人を使ってみる身分になりたい、いやいや、明日からまた、世間様の機嫌気づまを取って暮すことになるかと思うと、うんざりする。人間てわがままなのね、気の変りっぽいものね、今の先は、身の落着きがきまったと言って大よろこびで吹聴していたくせに、今となって、もう芸妓はいやで、世帯持のおかみさんになりたい、温泉宿屋のお内儀《かみ》にでもなりすました気分で、おおたばをきめこんでいるところなんか、まあ、自分ながら図々しさに呆《あき》れるわ。でも、このあわら[#「あわら」に傍点]へ温泉宿を持つことは、あたし骨になっても仕上げてみせますね、運次第ですけれども、風向きがよければ半年のうち、きっと何とか目鼻を明けてお目にかけることよ。宿をはじめてから、お客様が来て下すっても、下さらなくても、そんなことはかまいません、一度、あなたを呼んで、帳簿格子のお内儀《かみ》さんぶりを見せて上げさえすればそれでお気が済みますとさ。さあ、いよいよそうなるとしますとねえ、稼業《かぎょう》の方はうつ[#「うつ」に傍点]の家でいいけれど、宿屋の方は何としましょうねえ、そうそう、あたしの福という字と、あなたの兵馬の馬という字をいただいて、福馬屋とか、福馬館とか名乗りましょうよ。いいでしょう、いけない? あたしの福が上になって、あなたの馬が下になる、それでは御機嫌が悪いの、いいでしょう、男ばっかり上になって、威張りたがらなくても、少しは女も立てるものよ、馬は人が乗るものだから、かまわないじゃありませんか。それにあなた、稼業の方は、うつ[#「うつ」に傍点]と、あなたの字を立派にあたしの名の上にいただいているじゃありませんか、こんどは下にいて頂戴よ、仲よく、おたがいさまにねえ」
兵馬は、そんなことは、いいとも悪いとも思わない、ただ今晩一晩は、この女のために、なんでもかでも聞き役になってやりさえすれば修行が済むのだ、義務が果せる! といういい気だけのもので、その間、ちょいちょい、座を白まさぬ程度にうけ答えているうちに、一番鶏が鳴き出しました。
「あら、鶏の夜鳴《よなき》でしょう、まだ一番鶏なんて、そんな時刻じゃないわ、鶏の夜鳴は不吉だというから、もし夜鳴がつづいたら、出立をお見合せあそばしませな、かえり初日ということもあるじゃないの。でも、相当に夜が更けたようだわ、どれ、もう一風呂浴びて参りましょう、夜も昼もあんなにお湯がふんだんに吹きこぼれているのに、勿体《もったい》ないわ、一度もよけいに浴びてやるのが、お湯に対しての功徳というものよ、ねえ、もう一風呂浴びましょう、のぼせたってかまわないじゃありませんか、今晩限りの湯治ですもの、湯疲れがしたって知れたものよ、あの通り、お湯が湯壺でふつふつと言って、人にお入り下さい、お入り下さいと催促をしつづけているじゃありませんか、入ってやらないのは罪よ、入りましょう、一緒に入りましょうよ、今晩限りのお別れなんですもの、のぼせあがって目が見えなくなってもかまわないじゃないの、ねえ一緒に入りましょう。また、あなた、今になって、いやに御遠慮なさるのねえ、白山白水谷のあの道中で、あの通りの道心堅固なあなたじゃありませんか、いまさら一緒にお風呂を浴びたからとて、落ちるようなあなたでもなし、落すほどの腕を持ったわたしなら何のことはないわ、ああ、あのお湯が鉛なら溶けてこの身をなくしてしまいたい……」
女は、煙管《きせる》を抛《ほう》り出して、やけを繰返したかと思うと、衣桁《いこう》から浴衣《ゆかた》をとって、兵馬のドテラの帯に手をかけました。
五十七
宇津木兵馬は、その翌朝、まだ暗いうちに馬をやとうて、あわら[#「あわら」に傍点]を出立しました。
芸妓《げいしゃ》の福松は戸際まで送り出でたけれども、お大切にという声がつまってしまったものですから、そのまま奥へ引込んで出て来ませんでした。
さすがにこの女も、一間の中に泣き伏してしまったらしい。泣けて泣けて止まることができないために、意地にも、我慢にも、面《かお》が出せなくなったと解するよりほかはない。
兵馬も
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