れません。
 そうして、この場合、この怖るべきお喋り坊主の舌頭にかかって相手役を引受けている人の誰であるかが、竜之助にはっきりわかりました。相手方は何との応対もないのに、これが竜之助の勘ではっきりとわかりました。つまり、あのむつかし屋の胆吹の女王以外の何人でもありません。
 そこで、弁信がお銀様を相手に、かくも弁論の火蓋《ひぶた》を切り出したものだということが、はっきりと入って来ました。
「易という文字は、蜥易《せきえき》、つまり守宮《やもり》の意味だと承りました。守宮という虫は、一日に十二度、色を変える虫の由にござりまする、すなわちそれを天地間の万物運行になぞらえまして、千変万化するこの世界の現象を御説明になり、この千変万化を八卦《はっけ》に画《かく》し、八卦を分てば六十四、六十四の卦は結局、陰陽の二元に、陰陽の二元は太極《たいきょく》の一元に納まる、というのが易の本来だと承りました。仏説ではこの変化を、諸行無常と申しまして、太極すなわち涅槃《ねはん》の境地でござりましょう」
 盲人のくせに、こういう高慢ちきなお喋りをやり出す者は、弁信法師か、しからずんば、和学講談所の塙検校《はなわけんぎょう》のほかにあり得ないと思われるが、ただ、その声の出るところが、いずれの方面だか見当がつきません。
 いま聞いた発端だけによって判断すると、それは東西南北のいずれより起るのでもない、どうもこの地下のあたり、柳は緑、花は紅の辻の下から起り来《きた》るものとしか思われないことです。この下を二人が悠々閑々《ゆうゆうかんかん》とそぞろ歩きながら、前なるは弁信法師、後ろなるはお銀様が、「易」というものを話題として、説き去り説き来ろうとする形勢を感得したものですから、せっかく、歩み出した竜之助が、また歩みをとどむるのやむを得ざるに立ちいたりました。

         五十二

 宇津木兵馬と福松との道行《みちゆき》は彼《か》が如く、白山《はくさん》に上ろうとして上れず、畜生谷へ落ち込まんとして落ち込むこともなく、峻山難路をたどって、その行程は洒々落々《しゃしゃらくらく》、表裏反覆をつくしたような旅でありましたが、日と夜とを重ねて、ついに二人は越前の国、穴馬谷《あなまだに》に落ち込んでしまいました。
 二人が穴馬谷へ落ち込んだということは、この場合、ざまあみやがれ! ということにはならないのであります。イヤに即《つ》かず離れずの曲芸気取り、その落ち込む当然の運命はきまったものだ、好奇の一歩手前は、堕落の陥穽《おとしあな》というものだ、ドチラが先に落ちたか、後に落ちたか、ドチラがどう引摺《ひきず》ったか、引摺られたか、それは言いわけを聞く必要がない、おそかれ早かれ、当然落ち込むべき運命の谷へ落ち込んだまでのことだ、ザマあ見やがれ穴馬谷、と称すべき意味合いの皮肉の地名ではないので、事実、越前の国、穴馬谷《あなまだに》の名は、れっきとして存在した――今も存在する確実な地名でありまして、後年の測量部の地図にも、地名辞書にも、明瞭に記載された地名でもあり、且つや、谷というけれども、若干の人家が炊烟《すいえん》を揚げている尋常一様の山間の一部落なのであります。
 その穴馬谷へ二人が落ち込んだというのも、足を踏み外して落ち込んだわけではない、青天白日の下、尋常の足どりをもって、この一部落に落着いたという意味でありまして、ここで二人が、また前巻以来同様の宿泊ぶりを、一部落の一民家によって繰返しました。福松が破れ傘のような素振りで、絶えず兵馬を誘惑したり、からかったりしていることも以前と変らず、それを兵馬が閑々として、一個の行路底の修行道として受流しつつ行くことも前と変りません。
 ただ、変っているのは、白山白水谷をわけ入って、加賀の白山に登ろうということが、目標でもあり、一種の信仰でもあるようでした。それがすっかり目標から外れて、仏頂寺弥助の亡霊がさまよう越中の山境へも出でず、白山を経ての菜畑であった加賀の金沢とも、およそ方面を異にして、越前へめぐり込んでしまったということを、穴馬谷に落着いて、山民から聞いて初めてそれと知ったという有様なのでありました。
 とはいえ、極楽へ行こうとして菜畑へ落ちたわけでもなく、北斗をたずねんとして南魚に進んだというのでもなく、ちょっと針路が左へ片よったという程度で、飛騨《ひだ》から隣りの越中へ出たまでのことですから、前後を顛倒したというわけでもなく、進退に窮したというのではない。目的があってないような道行には、それも苦にならないで、二人は、これからまた落ち行く目標の相談をはじめました。
「ねえ、宇津木さん、ここは越前分ですとさ、越前の国、穴馬谷という村ですとさ、ほんとに穴のような土地じゃありませんか、どちらを見ても高い山ばっかり、穴
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