し方がございませんでして」
「お前に役目でつけられるような弱い尻は、こっちにはないぞ」
「そちら様にはとにかく、わっしの方で、ぜひ最後を見届けるところまで、おともが致したいんでございます、悪くつきまとうわけではござりません、役目でございましてな、手っとり早い話が、あなた様の昨晩のお泊り先はわかっておりますが、これからの先、それと、もう一つ、今晩のお宿許と、お国元の戸籍のところを一つ伺えば、それでよろしいんでございます。と申しますのは、まあ、世間並みのお方でございますと、一当り当れば、身分素姓のところ、すっかり洗ってお目にかけますが、あなた様に限って、当りがつきません、まるでまあ、失礼な話だが、幽霊のように、姿があって影がないんでございますからね」
「冗談を言うな、今はそんな冗談を言っている時ではあるまい、おれのような幽霊同様の影の薄い人間を、貴様のような腕利《うでき》き一匹の男が、鼻を鳴らして夜昼嗅ぎ廻っている時節じゃあるまい。古いところで、姉小路卿を殺した下手人はまだわかっていないだろう、三条河原へ足利の木像をさらした一味も検挙されてはいないはずだ、新撰組で芹沢が殺されたその下手人さえ、わかっているようでわからない、つい近い頃、大阪では天満《てんま》の与力内山彦次郎が殺されたというに、まだその犯人がわからない、江戸では、上使の中根一之丞が長州で殺された。ところでこの拙者などは、生来、悪いことは一つもしていない、たよりない宿なしの影法師同様な拙者を追いかけ廻して、いったいいくらになるのだ」
と竜之助からたしなめられて、源松はいよいよテレきった面をして、
「でございましても、病では死ぬ者さえあるんでございます、どうか、そこのところをひとつ、御迷惑さまながら、大谷風呂まで、その送られ狼というところで」
 執拗《しつこ》い――がんりき[#「がんりき」に傍点]の百以上だ。百のはいたずらでやるのだが、こいつのは職務――ではない、病だ、うるさい、という思入れで、無言に竜之助が歩き出すと、
「エヘ、ヘ、送られ狼――こっちが気味が悪いんでございますよ」
 かくて源松はまた、竜之助のあとを二三間ばかり離れて、薄尾花《すすきおばな》の中を歩みにかかる程合いのところで、またしても、
「あっ!」
と言ったのは、その、おどろおどろと茂る薄尾花の山科原の中から不意に猛然として風を切って現われたものがありました。
「あっ! 狼!」
 轟の源松も立ちすくんでしまったのは、冗談ではない、送り狼の、送られ狼のと、口から出まかせに己《おの》れの名を濫用する白徒《しれもの》の目に物を見せようと、狼が飛び出して来た、正の狼が眼の前へ現われた!
 と源松も一時は立ちすくんだが、そこは相当の度胸もあるから、
「あ! 狼ではない、鹿だ!」
 鹿だ! と呼ばれた時は、その獣は、もはや源松の眼前をひらりと躍《おど》り越えて、行手へ二三丈突っ飛んだ時でありましたが、
「鹿ではない、やっぱり犬だ!」
と、源松が三たび訂正のやむを得ざるに立至ったものであります。
「犬にしちゃあ、すばらしくでけえ犬だなあ」
 源松は追註《おいちゅう》をして、改めてそれの馳《は》せ行く怪獣の後ろ影を呆然《ぼうぜん》と見送ったばっかりです。

         五十一

 不意に出現の怪獣に、最初は狼と驚き、二度目には鹿と見直し、三度目には、やっぱり犬と訂正して、そうして更に、犬にしては豪勢素敵な奴だと追加の感歎を加えて、しばし呆然とその後ろ影を見送って立ち尽している。そのすぐ背後から、またも突然に、
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
 こういうかけ声をしながら、息せききって走《は》せつけて来るものがあるのですから、源松は、その行手を慮《おもんぱか》らないわけにはゆきません。
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
 後ろから走せて来たのを、避けてやり過してやろう――轟の源松は、路傍の草の中へ少し身を引いていると、
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
 怪しげな掛声に呼吸を合わせて、走せて来たのは、まさしく今の犬を追いかけて来たものでしょう。と見ると、犬の大なるに比して、人の小さいこと、ほとんど子供と思われるほどの弾丸黒子《だんがんこくし》、それが、宙を飛んでかけつけた。紺かんばんに、杖を調練の兵隊さんがするように肩にかけて、まっしぐらに馳《は》せて、せっかく道を譲った源松に目もくれず、辞譲のあいさつをする余裕もなく、今し逃げ去った豪犬のあとを追って走り来《きた》り、走り去るのであります。
 それをも、源松は暫く面くらって見送っていたが、その時急に呼びさまされたことは、犬ははじめて見る豪犬だが、人間は
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