見ていては見る目が偏《かたよ》るぞ」
とさしはさむものがあるかと思うと、一方には、
「いや、まだ大名のうちにも油断のならぬのがいるぞ、土佐、肥前なんぞは、なかなか食えないぞ」
と言う者もありました。
四十七
「土佐は食えない」
と和するものがあって、薩長論から続いて話壇を占有したものは土佐でありました。
「土佐の国の国論というものは一種不可思議だよ、志は王政の復古にあらず、さりとて幕政の現状維持でもない、どのみち、天下は一大改革をせにゃならんということは心得ているらしいが、その方法として、封建を改めて郡県を立てんとするの意思も相当徹底しているらしいが、それはよろしいが、その手段方策というものが土佐一流で、徳川慶喜《とくがわよしのぶ》をして大政を奉還せしめる、これも異議がない。しかして大政を奉還せしめた後、天下の公卿諸大名から、各藩の英才を徴して新政に参与せしめる、その理想も悪くはないが、さて、その新政体の主脳髄は何という段になると、それが今の慶喜を将軍職を奉還せしめた後、改めて政権の主座に置いて、三百諸侯みな現状維持の下に、つまり藩主を藩知事というものにして、それで、現状維持のままに政《まつりごと》を一新せしめて行こうという案らしい。それが、無用の破綻《はたん》と摩擦を起さずして、しかして体制を一変し、新政の実を挙ぐるに最も妙用であると、土佐ではそう考えているらしい。そういうような意見と運動が、一藩の輿論《よろん》となっているらしい。それだというと、いわゆる公武合体のようなありふれた妥協でもないし、一面は一新の革新意識に触れているし、一面は旧制度の保守にも通じている、ちょっと、まともに反対しようがあるまい。この一藩の輿論の下に、土佐はまず幕府に向って大政奉還運動を働きかけている、徳川氏に向って、早く政権を朝廷に向けて奉還せよ、それが天下の大勢であるし、また徳川氏の社稷《しゃしょく》を保つ最も賢明の方針だ、大政奉還が一刻早ければ早いだけの効能がある、一刻遅ければ遅いだけの損失がある、ということを、あの藩の策士共はしきりに幕府に向って建議勧誘しているそうだ」
「それは利《き》くまい、三百年来の徳川政権を無条件で奉還する、いくら内憂外患|頻発《ひんぱつ》の世の中とはいえ、一戦も交えずして政権を奉還する、そんなことは将軍職としてやれまい、将軍職としてはやれても、臣下が肯《がえんず》るということはあるまい、夢だ、空想だ、策士の策倒れだよ」
「ところが、存外、それが手ごたえがありそうだということだ、幕府も大いに意が動いているらしいということだ、なんにしても、もはや徳川幕府ではこの時局担当の任に堪え得られない、よき転換の方法があれば、早く転換するのが賢いという見通しは、こと今日に至っては、いかに鈍感なりといえども、気がついていないはずはあるまい、よって、存外、土佐の建策が成功するかもしれない」
「そんなことは痴人の夢だよ、天下の幕府でなく、一藩の大名にしてからが、藩政が行詰ったから大名をやめます、藩主の地位を奉還しますとは誰にも言えまい、取るに足らぬ一家にしたってそうじゃないか、みすみす家をつぶすということが、一家の主人としても、オイソレとはやれない、幕府の無条件大政奉還などということは、いくら時勢が行詰ったって、これは夢だよ、それこそ書生の空論だよ、今の時勢だから、書生の空論も、一藩の輿論《よろん》を制するということはできない限りもあるまいが、天下の大権を動かそうなどとは、それは痴人の夢だ」
「ところが、存外、痴人の夢でないということを、僕はある方面から確聞した、それに大政奉還は徳川の家をつぶす所以《ゆえん》でなく、これを活かす最も有効の手段だということなんだ、そこに、徳川家と土佐とには、ある黙契が通っているらしい、大政奉還将軍職辞退の名を取って、事実、新政体の主座には、やっぱり慶喜を置く、そうして天下を動揺せしめずして新政体を作る、というのが眼目になっているらしいから、そこで、幕府も相当乗り気になっているらしい、つまり名を捨てて実を取る、名を捨てることによって時代の人心を緩和する、実を取ることによって、やっぱり徳川家が組織の主班である、多少、末梢《まっしょう》のところには動揺転換はあるにしても、根幹は変らないで、しかも、効を奏すれば、時代の陰悪な空気をこれで一掃することができる、至極の妙案だと、乗り気になって動き出したものが幕府側にもあるということだ」
「ふーん、してみると、坂本や後藤一輩の書生空論によって、天下の大勢が急角度の転換をする、万一、それが成功したら、また一つの見物《みもの》には相違ないが、同時に徳川家を擁する土佐の勢力というものが、俄然として頭をもたげて来るということになる、慶喜を総裁として、容堂が副
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