いのだよ――実はな、拙者も久しぶりで京の地へ足を入れた最初の晩がこれなんだ。そうさなあ、もう何年の昔になるかなあ、たった一晩、島原で遊んだ風味が忘れられないで、京へ着くと第一の夜が、それあの里さ。尤《もっと》も、おれが好んで第一にあの里へ足を入れたというわけではない、途中、要らざる出しゃばり者が出て来て、おれをあの里へつれ込んだ、下地は好きなり御意はよし、というところかも知れない。その出しゃばり者とは、まず旧友といったようなところかな、そいつが二人も出て来て、そぞろ心のついている拙者を、あの里へ引張り込んだはいいが、おれを真暗な行燈部屋《あんどんべや》、ではない、御簾《みす》の間《ま》といって、相当時代のついた別座敷へ、おれを抛《ほう》り込んで置いたまま、その二人の奴が容易に戻って来ない、いやに旧友ぶりをして見せはしたが、実は薄情極まるものだ。だがまた、一概に薄情呼ばわりもきつい、あいつらも皆、今日あって明日の知れない命を持っている奴等だから、おれをあそこへ案内して置いて、久しぶりで大いに遊ばせようと思って、外へ所用を済ませに出たのが、万一、その途中、不慮のことでも起って……まあ、そんなことを思いやって、ひとり真暗な御簾の間にくすぶっていたが、宵《よい》が過ぎると、この通りの追払われもの、振られて帰るという里の合言葉があるそうだが、追われて帰るんだ。だが、追われるはいいが、その帰り先がわからん、心細い次第のものだ」
 さらさらと、少しかすれた声で淀《よど》みなく言ってのけて、自ら嘲るようにも聞えたから、轟の源松が、
「いえ、どう致しまして、追い立てるなんて、そんな失礼なことを致す里の習いではございません、おそそうがあってはいけないから、お宿もとまで確《しか》とお送り申し上げろと、わざわざわっしを、あとからせき立てて、よこしましたくらいなんですから」
「いずれにしても御苦労な話だが、御苦労ついでに、その拙者のお宿もとというやつをひとつ心配してくれないか、わしは今晩ドコへ行って宿《とま》ったらいいか」
「御冗談じゃございません、おれの行くところはどこだと交番でお聞きになるは、篠山《ささやま》の杢兵衛《もくべえ》さんに限ったものです、あなた様などの御身分で、めっそうもない」
「何はともあれ、島原は源平藤橘を嫌わないところだ、金さえあれば、王侯も、乞食も、同じ扱いをする里で、追い払われた身は行くところがないじゃないか――お前、親切で送ってくれるのだから、親切ついでに、わしを送り込む宿所まで見つけてくれるのが、本当の親切だ」
「恐れ入りました、左様の御冗談をおっしゃらずに、どうか、お行先をおっしゃっていただきます、暁方とは申せ、まだ先が長うございます、どれ、この辺でひとつ提灯《ちょうちん》に火を入れさせていただきまして」
 轟の源松は、腰に下げていた小田原提灯を取り出して、燧《ひうち》をカチカチと切って、それに火を入れたのは、とある橋の袂《たもと》でありました。

         三十一

「ここは三条大橋でございます、この辺で、お宿許を教えていただかないことには、あとは東海道筋百二十二里……あ、提灯の蝋燭《ろうそく》も寿命が尽きたかい」
 せっかく火を入れた小田原提灯が、もう少し前から消滅してしまっている。送ってくれと頼んだわけでも、頼まれたわけでもないから、不平を言うべき筋はあり得ないのだが、京の町を、てんから無目的で際限なく引張り廻された日にはやりきれない。それを、相手方はむしろ気の毒とでも思ったか、素直に受入れて、
「では、芹沢《せりざわ》がところまで送ってもらおうか」
「芹沢様とおっしゃいますのは」
「芹沢鴨、いま名うての新撰組では隊長だ」
「ああ、その芹沢先生ならば……」
 轟の源松は、仰山らしく声を上げて、
「芹沢先生は、お気の毒なことに殺されました」
「殺《や》られたか」
「ええ、まことにお気の毒なことで、あの剛勇無双な先生でも、災難というものは致し方がございません」
「いったい、芹沢は誰に殺《や》られたのだ」
「それがその――隊の方の評判によりますると、長州の者だろうとのことでございますが、なあに、そうではございません。では何者だとお聞きになると困りますが、薩摩でも、長州でもございません、ちゃあんと犯人はわかっているのでございますが、申し上げられません」
「お梅はどうした」
「ああ、あの女は――美《い》い女でございましたが、芹沢先生と一緒に殺されましたよ」
「人の女房を奪ったのだそうだな」
「女房ではございませんそうで、菱屋太兵衛のお妾《めかけ》だそうです、太兵衛に代って掛金の催促に来たのを芹沢先生が、いやおういわさず、ものにされてしまったというが本当らしいのでございます――芹沢先生と、あの美い女と、二人寝ているとこ
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