かるかも知れませんが、私という女は、わからない女なのです」
「いや、わかり過ぎておいでになる――」
「いいえ、わかりません、わたしという人間は、天地間第一等のわからず屋でございます、それでいいのです」
 お銀様の言葉が少し癇《かん》に立ってきたので、弁信はまた病気が出だしたなと思ったのか、広長舌を食いとめて、深く触れることを避けた心遣《こころづか》いがあります。そこで、なにげなく話頭を一転し、語気を一層|和《やわ》らげて、
「それで、なんでございますか、あなた様の代りにお家をおつぎになる相続人、果してお父様のおめがねに叶うお人がありまするやら、その辺に立入っての御相談はございませんでしたか」
「ありました」
 お銀様は、きっぱり答えたので、弁信法師も少しくはずみました。

         十二

「そのお方はどなた様ですか、あなた様の御親戚のうち、或いはお知合いの方で、まずあれならばと思召《おぼしめ》すようなお心当りがございましたか」
「いいえ、ちっとも知らない人です、なんでも連れ子をして、このごろ家に居候《いそうろう》をしていた他国者なんだそうですが、それを見込んで父が親子養子にすると申しますから、御存分に、身分素姓などのことをかれこれ申すくらいなら、最初から私が嗣《つ》ぎますと、私は言いきってしまいますと、この場はそうでも、後日ということもある、他人を相手のことだから、これに判をしなさい、父の認めたこれこれの養子に家督一切を譲っても、後日に至って毛頭異存のないというこの書附に判を押しなさいと、父が申しますものですから、ええ、ようござんすとも、ようござんすとも、判などは幾つでも、どこへでも捺《お》して上げますと、私はその証文へ自筆で名を書いて、女だてらの血判までしてやりました」
「あなた様のお名前を書き、血判までしておやりになりましたならば、その証文面をイヤでも一応はごらんになりましたでしょう、あなた様に成代《なりかわ》って家をおつぎになる、父上のおめがねにかなった新しい御養子というお方は、いったいどのようなお方でございましたか――せめてそのお名前くらいは」
 弁信法師が念を入れて、根深くたしかめようとすると、お銀様が、
「本人の名は、与八とだけ書いてあるのを見ました、その傍に並べて、郁太郎《いくたろう》と書いてあったようです、郎という字かと思いましたが、郎太郎
前へ 次へ
全201ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング