びてしまったということを、与八は昔から観念している。
 そこで彼は、この子を父にしてはならない、祖父にしなくてはならない、と感づくのは当然の認識であるが、与八としては、その父を怖れるよりは、一層、祖父なるものの偉大なるを信じている。そこに、与八の教育の根本方針が成り立っていました。
 事実、与八の眼で見た弾正という人、すなわち郁太郎のためには祖父、竜之助のためには父なる人ほど、この世に於て偉大なりと信じている人は有りません。
 それは、棄児《すてご》であった自分の一身を拾い取って、衣食を与えた生命《いのち》の恩人というだけの観念ではないのです。
 およそ、この世界に於て、いかなる人がエライといって、うちの大先生ほどのエライ人はない。江戸へ出て、エライと言われる人もお見かけ申したことがないではないが、そのエライ人でも、うちの大先生にはかなわない。どこがどうエライかということは与八にはわからないが、どんなエライと言われる人をお見かけ申しても、うちの大先生のことを思い出すと、引け目を感じないことを与八は直覚する。つまり、エライ人にはみんなそれぞれ身に備わる「威」というものがある。うちの大先生の「威」は、どんな人にも遜色がない、ということが、与八の信仰となっているのであります。与八が「威」という観念で解釈しているのは、近づき難い怖れという意味ではない、与八は与八らしく世間の「威」という観念を受入れて、人格の備わった徳の高い人に、おのずから備わる後光のようなものだと信じているのです。ドコへ出て、どういう人を見ても、与八はうちの大先生のことを思うと、ちっとも引け目を感じない。それがつまり、大先生の威というものだと信じているのです。
 そこで当然、その血筋を引いた郁太郎様は、お祖父《じい》さんのような人に仕上げたいものだという希望も、無理ではないのです。お祖父さんの正しい血筋を引いているのだから、お祖父さんのようなエライ人になれるべきはずである、というのがまた与八の信念で、同時にそれを、お祖父様のように仕上げるのが一つ間違って、竜之助様のようにしてしまった日には、その責任がかかって自分にあるということを感得すると、与八が恐懼戦慄《きようくせんりつ》するのもまた無理がありません。
 どうして教育して上げたらいいか、わしぁ学問はなし、金ぁなし、器量はなし、なにもかもないないづくし。こ
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