そうではない、どこかで見ている! ああ、あの小粒! びっこ[#「びっこ」に傍点]を引きながら、しかも軽快に疾走するあの足どり、精悍《せいかん》な面魂《つらだましい》、グロな骨柄、どう見たって見損うはずはない。ほとんど命がけ、江州長浜の一夜の手柄にあげたが、あいつが譲らなければ、こっちが危なかった。
「あいつだ!」
 轟の源松は、そう気がつくと、ここでもまた二狼を追うわけにはいかず、一方の送られ狼にはなんら辞譲を試むることなしに、いま目の前を過ぎ去った弾丸黒子に向って、全速の馬力を以て追いかけました。
 源松が急角度の方向転換で、まっしぐらに追いかけた当の相手というのは、宇治山田の米友でありました。
 あの晩、あの小者《こもの》めをやっとの思いで手がらにかけたが、今以て善良不良ともに不明なのはあいつだ。伊勢の生れだというのに、江戸ッ子はだしの啖呵《たんか》を切るし、兇悪性無類の放浪児とばかり踏んでいたが、その啖呵をきいていると、正義観念が溌溂《はつらつ》として閃《ひらめ》くことに、源松の頭も打たれざるを得なかったが、調べの途中から、全然口を利《き》かなくなり、胸の透くような啖呵も切らなくなり、問われても、責められても、一言一句も吐かない。拷問《ごうもん》同様の目に逢わせてみても、口がいよいよ固くなるばかりだ。のみならず、大抵の責め道具では、あいつには利かない。人間の生身だから痛いには痛い、こたえるにはこたえるだろうけれども、あいつに限って、痛いと言わないのみか、痛そうな面をしない。痛そうな面をしないのではない、本心痛くないのだ。すなわち不死身という変体になっている、そう思うよりほかはなかった。それから、あぐみ果てて、好意を以て、だましつ賺《すか》しつしてみても、いったん固めた口はついに開かない。わざと鎌をかけて、口を開かないと非常な不利益な立場になる、損だぞ、と言っても、損益が眼中にない。
 ついに政略上、是非善悪不明のままに、あいつを農奴の張本に仕立てて、曝《さら》しにかけたのは、こいつならば、よし冤罪《えんざい》に殺しても、後腹《あとばら》の病まない無籍者だから、時にとっての人柱もやむを得ないと、当人ではない、役人たちが観念して、草津の辻へ「生曝《いきざら》し」にかけてしまったが、源松そのものも、実はあんまりいい気持がしなかったのだ。無籍者にしろ、放浪者にしろ、ル
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