ものがありました。
「あっ! 狼!」
 轟の源松も立ちすくんでしまったのは、冗談ではない、送り狼の、送られ狼のと、口から出まかせに己《おの》れの名を濫用する白徒《しれもの》の目に物を見せようと、狼が飛び出して来た、正の狼が眼の前へ現われた!
 と源松も一時は立ちすくんだが、そこは相当の度胸もあるから、
「あ! 狼ではない、鹿だ!」
 鹿だ! と呼ばれた時は、その獣は、もはや源松の眼前をひらりと躍《おど》り越えて、行手へ二三丈突っ飛んだ時でありましたが、
「鹿ではない、やっぱり犬だ!」
と、源松が三たび訂正のやむを得ざるに立至ったものであります。
「犬にしちゃあ、すばらしくでけえ犬だなあ」
 源松は追註《おいちゅう》をして、改めてそれの馳《は》せ行く怪獣の後ろ影を呆然《ぼうぜん》と見送ったばっかりです。

         五十一

 不意に出現の怪獣に、最初は狼と驚き、二度目には鹿と見直し、三度目には、やっぱり犬と訂正して、そうして更に、犬にしては豪勢素敵な奴だと追加の感歎を加えて、しばし呆然とその後ろ影を見送って立ち尽している。そのすぐ背後から、またも突然に、
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
 こういうかけ声をしながら、息せききって走《は》せつけて来るものがあるのですから、源松は、その行手を慮《おもんぱか》らないわけにはゆきません。
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
 後ろから走せて来たのを、避けてやり過してやろう――轟の源松は、路傍の草の中へ少し身を引いていると、
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
 怪しげな掛声に呼吸を合わせて、走せて来たのは、まさしく今の犬を追いかけて来たものでしょう。と見ると、犬の大なるに比して、人の小さいこと、ほとんど子供と思われるほどの弾丸黒子《だんがんこくし》、それが、宙を飛んでかけつけた。紺かんばんに、杖を調練の兵隊さんがするように肩にかけて、まっしぐらに馳《は》せて、せっかく道を譲った源松に目もくれず、辞譲のあいさつをする余裕もなく、今し逃げ去った豪犬のあとを追って走り来《きた》り、走り去るのであります。
 それをも、源松は暫く面くらって見送っていたが、その時急に呼びさまされたことは、犬ははじめて見る豪犬だが、人間は
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