した。
今まで、それを思い出さなかったのはどうしたものだ。
あの女が盗《と》ったのだ、あの女が、泊り合わせた美僧と美女の情合いを嫉《ねた》んで、美僧がかけて置いた釘頭《ていとう》の財《たから》を、そっと奪って隠したればこそ、二人は命を失った、財を奪うは即ち命を奪う所以《ゆえん》であった。
その金は、天竜寺の和尚とやらの手許の金であったというではないか、生仏を地獄に落したほどの女が、人の恋愛の糧《かて》を盗み得ないと誰が言う。
憎い女、二人を殺したその財布の行きどころは確実にあれだ。
竜之助は、むらむらと、その心に駆《か》られてみると、敵を外に求めてさまよい歩き出して来た自分を、少なからずうとましいものに思いました。
庫裡《くり》へ帰れば女がいる、憎い女がいる。老禅師を失脚させ、その愛弟子《まなでし》の命を奪った女が、猫を抱いて眠っている。それを追究することをしないで、何をこんなところへきてうろうろしていたのだ。
「帰る、月心院の庫裡へ帰る」
ほどなく、堂前を辞した竜之助の足どりは、宙に浮ぶが如く、月心院をめざして戻って来たが、庫裡へ戻って見ると、獅噛《しがみ》の火鉢に火はカンカンと熾《おこ》っているが、人のいないことは出て行った時と同じで、行燈《あんどん》はあるが、明りのないことも前と同じ。そこへ、さあと坐り込んで、ホッと息をついて、獅噛火鉢へ肱《ひじ》をあてがってみたが、落着いてみると、四方《あたり》の森閑たることが、ひとしお身に染みて、さて、どうして急に自分の心頭がわいて、一気にここへ走《は》せ戻ったかが、気恥かしいくらい。
火鉢にかかった鉄瓶を取って、湯呑についでグッと一口に飲んでみると、湯と思ったのが酒であった。あ! と思ったが、この場合、悪いものを呑まされたのではない。一杯、二杯、グッ、グッと呷《あお》ってみると、急に自分の心持が賑《にぎ》やかになって、四方がなんだか面白くなってきました。
面白くなってきてみると、はて、なんで自分が急に思い立って、ここまで走せ戻って来たか、これもおかしい。
ははあ、斎藤はいいものを置いて行ってくれたわい、この鉄瓶が酒であろうとは思わなかった、燗《かん》が口合いに出来ている。鉄瓶から直接《じか》にうつした燗だから、金気《かなけ》があって飲まれないかと思うと、そうでない――上燗だ。
竜之助は湯呑で立てつづ
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