が、木津の新在家《しんざいけ》へ来て、はじめて気がついたことは、昨晩、月心院の庫裡で、後生大事の財布を柱にかけてかけっぱなし、忘れてはならないはずのものを忘れて出て来た、はっ! と顔の色の変った時はもう遅い、それを取戻すべく立戻れば身が危ない、このまま行けば身が立たない。
 二人は、その運命の怖ろしさと、師にそむき、戒にそむいた現罰が、あまりにも早く身に報い来《きた》ったことに戦《おのの》いて、とうとう、そこで、相抱いて木津の川へ身を投げて死んだ。
 それからというもの、月心院のあの庫裡では、夜な夜な若い男女の、世にも悲しい泣く音が洩《も》れると、白い細い手が柱から壁、壁から長押《なげし》と撫で廻しては、最後にまた絶え入るばかり、よよと泣き沈む……
 そういう伝説が、パッと縁無き世間にまで広まりわたっている。
 右の一条の物語を尼さんから聞かされて、はじめて竜之助も、さる因縁もありつるものかな、と思いました。聞いてみれば、哀れでないという話ではないが、そうした行き方は世間にはザラにあることだと、例によって竜之助の同情がつめたい。つむじが意地を巻いて心頭に上って来たが、やっぱり挨拶の都合上で、
「して、その財布の金はありましたか」
と駄目を押したが、我ながら、これは甚《はなは》だまずい、まずいだけではない、この場合、さもしく響く挨拶だと思いました。
 堂守の尼も、そこを透かさず咎《とが》めたわけでもありますまいが、
「左様に仰せられるものではござりませぬ、お金の有る無しは問題ではござりませぬ、捨てられた二つの生命《いのち》の恨み、よし、その財布のお金が十倍になり、百倍になって戻って参りましたからとて、もはや二人の命は浮べるものではござりませぬ」
「いや、その財布の金を盗んだものに、拙者は心当りがあるので、お聞き申してみたまでだ」
「そのお金を盗りました者が」
「たしかに、心当りがある」
「それはもはや疾《と》うの昔のことでござりますが」
「いや、現在、拙者の頭では――その美僧の金を奪った女がほかにある」
「何と仰せられまする」
 堂守の尼は、竜之助の言うことを解し得ざらんとしていたが、その時、また竜之助の心頭にむらむらと上って来たのは、つい今まで忘れていた、昨晩、斎藤一が口を極めて艶称した、あの愛猫を探すべく不意に二人の座敷へ侵入して来た、しなやかな美人のことでありま
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