歩を与えたことは、与えられた者も、与えた者も共に不幸です。
かくて、甲府城下の躑躅《つつじ》ヶ崎《さき》の古屋敷でした時のように、一応刀を抜きはなして、それを頬に押当てて、鬢《びん》の毛を切ってみました。
ただし、あの時には、自分一個の天地の隠れ家にいて、秋夜、水の如く、鬢の毛の上に流れ、一行の燈の光も微かながら冴《さ》えていたが、今晩は、火鉢の火のほかには光というものと、熱というものが与えられていない。それと、もう一つ、あの時には得物が相当に豊富で、古名刀をはじめ、新作のつわものが鞘《さや》を並べて眼前にあって、そのいずれをも、切取り、切試しに任せてあったが、今日は、数日来、身に帯びていた一腰ばっかり。その一腰とても、昨夜、斎藤に向って歎いて言った通りであるから、意にかなうほどの名刀であるとは思われない。それでも、唯一の打物であるそれを取って、腰にさし下ろして、その座を立ち上りました。
やおら立ち上って、これからいずれへ向ってか御出動という間際に、よよと泣く声が座敷の一方から起りました。
よよと泣くのだから、黙泣《もっきゅう》でもなければ慟哭《どうこく》でもない、むしろ忍び音といった低い調子でしたけれども、ソプラノの音で、女の泣く声でした。
それには思わず立ちすくまざるを得なかったので、みるともなく、見上ぐるともなく、声のした方に面《かお》を向けると、あ、ああ――! というこれも泣く音。前に、よよと泣いたのはソプラノで、次に、あ、あ、あ! と泣いたのはバス。ただ、ソプラノは低くて、バスが高い。
よ、よ、あ、あ! よ、よ、あ、あ! テノールとなり、アルトとなって、完全な二部合奏がはじまったのは、ついその瞬間で、まさしく男女抱き合って泣いている声です。
竜之助は、それを忌々《いまいま》しい声だと思いました。人の出際にあたって、笑ってこれを送るというなら話になるが、泣いてこれを送り出すというは忌々しい。
それを癪《しゃく》にさわって、改めて、その泣く音の方を見廻し――やっぱり、眼は利かないし、光はないのですが、本能的に左様な身ぶりをして、ドコで誰が泣いていやがる――というこなしでありましたが、その男女の悲泣の合奏の、この部屋の一隅でしているのか、柱の中でしているのか、あるいは天井裏でしているのか、トンと見当がつきません。
それを忌々しがりながら、竜之助
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