の三面種に及ぶまで、思いきって内秘を発《あば》き立てて、汚ない哄笑で終ることもある。そういうような空気であったのに、今日は――ではない、もう今宵と言っていい時刻なのに、人っ子ひとり来ない。つまり、出て行った壮士は一人も帰らず、とぶらい来《きた》る風客というものも一人も見えないのだから、空気が手持無沙汰で、人にとっては一種の荒涼な気が襲って来るのです。
 それでも、常の通り、ちゃあんとお茶弁当の接待は整っている。竜之助は部屋の一隅の洗面所へ行って、簡単に洗面を果してから、ひとりその食事にとりかかりました。
 弁当を食べ、お茶を飲み了《おわ》るまでに相当の時間を費したけれども、誰もまだ一人も帰って来ない。
「壮士ひとたび去ってまた帰らず――か」
 竜之助は、思わずこんな独《ひと》り言《ごと》を言うほどに、心に荒涼を感じました。
 実際、ここに出入りしていた者共は、新撰組から分離、或いは脱走して御陵隊へ走った壮士ばかりであった。つまり、ここはそれらの壮士の控所に当てられていたのですから、竜之助が、一人も帰らないその控所に取残されて、「壮士ひとたび去ってまた帰らず」と言う口ずさみの感じも、偶然に聳発《しょうはつ》されて来るので、彼は昂奮を感じ、悲愴に別離されて、そういう気分が口頭に上ったのではないのです。
 食事終って、人を待つでもなく、待たれるでもない気分のうちに、ゆっくり落着いてみたが、もうそれから、三度目の休息に就くという気合ではありません。羽織を取り、頭巾《ずきん》を取り、両刀を引寄せて膝に置いたのは、まさしくこれから出動という気構えでありました。
 なるほど、これからが彼の世界かも知れない。悪魔は夜を世界として、闇を食物とする。明を奪われた人間は、夜は故郷に帰るようなものである。それにしても、この男にまだ出動の世界を与えているということは、いささか時の不祥と言わなければなるまい。江戸の弥勒寺長屋《みろくじながや》にいた時分、江戸の闇を食って歩いた経歴は知る人ぞ知る。甲府の城下へたどりついた時分に、甲府城下の如法闇夜に相当以上に活躍したことも知る人は知っている。それが信濃の山、飛騨《ひだ》の谷を引廻されている間は、市民の里では幾つかの罪のない人の夜歩きが保証されたはずなのに、業という出しゃばり者が、いらぬ糸を繰って、これをまた京洛の天地に釣り戻してしまった。悪魔に地
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