です。
「誠」の一字の提灯は、新撰組の一手のほかのものでありようはずはない。
かくて轟の源松が再び橋上に戻った時分には、自分が残して行ったつもりの人影はありません。
新撰組の一行が粛々として三条大橋を西に向って渡り去った、その後ろ影を、はるかにながめやるばかりでありました。
三十六
月心院の一間で、机竜之助が、頭巾も取り、被布も取払って、真白な木綿の着衣一枚になって、大きな獅噛火鉢《しがみひばち》の縁に両肱《りょうひじ》を置いて、岩永左衛門が阿古屋《あこや》の琴を聞くような形をして、黙然としている。
それと向き合って、火鉢とはかなり離れたところに敷きのべた大蒲団の上へ、これも白衣一枚で寝まき姿で、斎藤一が無雑作に坐り込んで、しきりに竜之助に向って話をしかけている。二人ともに、この寺院の荒涼たる広間で、白衣を着て対坐したところが、行者か亡者かみたようだが、事実は、寺院備えつけの納所《なっしょ》の坊主の着用を一時借用に及んだものらしい。
今、二人ともに、これから寝に就こうとして、その寝つき端《ばな》をまだ話が持てているらしいのです。会話といううちに、お喋《しゃべ》りの斎藤が一人で持ちきっているようなもので、
「ねえ君、ぜひ一度、近藤に会って見給えよ、君が毛嫌いをするような男ではない、世間が誤解している如く、君もまた誤解している、一度、近藤に会ったものは、必ず認識を改めるのを例としているのだ、彼を以て殺伐一方の、血も涙もない殺人鬼の変形のように見るのは当らない。まあ、この一軸を見給え。見給えと言ったところで、君には馬念に過ぎないが――」
ここに斎藤が馬念と言ったのは「馬の耳に念仏」という諺《ことわざ》の略語だと思われる。つまり眼の見えない机竜之助に掛物を見ろというのが失当であることを、その瞬間に気がついての駄目なのだが、それでも壁にかけた一軸を指した指は撤回しない。
「これは、近藤に頼んで僕が書いてもらったのだ、彼の詩だよ、七言絶句だよ、いいかい、僕が読み且つ吟ずるから聞いて居給えよ」
と斎藤は婆心を加えた。読めと言うのは無理だが、聞けと言うのに無理はない。そこで斎藤は、壁にかけた唐紙半切《とうしはんせつ》の二行の文字を読みました。
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百行所依孝与忠 取之無失果英雄
英雄縦不吾曹事 豈抱赤心願此躬
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