みましたが、この時、提灯は抛り出してしまって、懐ろへ手を差し入れたのは、火打道具を取り出さんがためではありません――一張の捕縄《とりなわ》です。
 その時の源松の気勢は、変っておりました。職務の遂行のためには死をだも辞せずという、一種の張りきった気合が充ち満ちたかと見ると、件《くだん》の長身覆面の客から物の三間ばかり離れて、橋板の上へ飛びのいて、足踏み締めて、身を沈めて、捕縄の一端を口に銜《くわ》えて、見得《みえ》をきってしごいたのは、かの長浜の一夜で、米友に向って施したのとまさに同じ仕草です。
 だが、今晩のは、捕手の中心がよく定まらないようです。ここで、自分の送り狼を捕ろうとするのか、或いはまた、一旦は天下御免の遊民と見て安心した下流の川渡りに、再吟味するまでもなく、なんらかの不安を感じたために、それを捕りに行くための身構えか、二つの目標が同時に現われたものですから、源松の着眼が乱視的で、これだけの仕草ではよくわからないのです。
 だが、送られて来た覆面の遊客は、こころもち移動して、橋の欄干を背後にしたことによって、この気合を感得したものらしい。ただ、それだけで、柄に手をかけるのでもなく、刀を抜こうでもないが、その身そのままが構えになっている。
 源松に於ては、依然として三間ばかりを遠のいた地点にいて、あえてそれより遊客に近づいては来ないのです。源松の眼を見ると、二つの眼を、二つに使い分けをしていることがわかる。すなわち一つはこの橋上の送り狼に、もう一つは川下をわたる二人の乞食に、双方に眼を配って、一本の捕縄をしごいて、空しく立っているらしい。
 それはそのはずで、優れた猟師といえども、方向の違った二つの兎を同時に追うことはできない。まして、相手は兎ではなくて狼である。
 このきわどい場合にも、さすがに源松は打算をしました。そこで、がらりと気分を崩して、あわただしく、いったん取り上げた捕縄を再び懐中にねじ込んでしまって、
「いや、どうも、川下に変な奴が川を渡っておりまするでな、ひとつ様子を見届けて参りたいと存じますが、その間、相済みませんが、ここで暫くお待ちを願いたいのでございます、なあに、直ぐ戻って参ります、どうか、暫くの間、ここのところで」
 妥協を申し入れるような口ぶりで、急に折れて来たのは、つまり、ヒットラーではないが、同時に二つの敵を相手にすることは、
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