です。呼んでも返事がないのです。
 はっ! と何かに打たれたように、村正氏は慌《あわただ》しく、以前のぼんぼりに火を入れさせて、わざと騒がぬ体にして、
「おじさんが探して来るから、みんな安心して待っておいで」
 一人で、その雪洞を持って、また廊下を引返して来たのは、今の乱闘の現場――御簾《みす》の間《ま》――そこへ、二の足をしながら、雪洞をさし入れて見ると、座敷いっぱいに敷きのべた古戦場のあとはそのまま。はっ! と再び動顛してまず眼についたは、かの壁の一隅、まだ人はいる。以前の長身白顔の爛酔客が、あちら向きになってうめいている。しかも、その壁に押しつけられたところは、大蛇《おろち》が兎を捕えたように、可憐の獲物を抱きすくめて、放すまじと、それにわだかまっている。獲物は、声も揚げない、叫びも立てない、死んだもののようになっている。死んでいるのかも知れない。大蛇は静かに蠕動《ぜんどう》して、そうして確かに生きている。
 はっ! と、村正氏はついに雪洞を取落してしまいました。
 四方はまたまっくらやみ。

         二十九

 その日、大びけ過ぎといった時刻の暁方、追い立てられるように、島原の大門を出た、たった一人の客がありました。
 追い立てられるというのは、ホンの形容で、事実、誰も追う人はなし、追わるるような弱味の体勢にはなっていないが、時が時であって、四方が四方でしたから、引窓の中から抜け出して、朝霧の中へ消えて行くような感じで大門を出たが、足どりは寛《ゆる》やかで、時々町筋に留まっては、前後を思案するような気配がある。黒い頭巾をかぶって、着ていたのが合羽《かっぱ》ではない、被布《ひふ》であるらしい。下着は白地で、大小を落し目に差しこんでいるが、伊達の落し差しではない。スワ! と言わないまでも、いつ何時でも鞘走《さやばし》るような体勢で、それでもって、はなはだ落着いて、静かに地上を漂うが如く忍んで行く。
 ははあ、これだな、先刻、御簾の間の、闇にひとりぽっちの爛酔《らんすい》の客、しきりに囈語《うわごと》を吐いて後に、小兎一匹を虜《とりこ》にしてとぐろを巻いて蠕動《ぜんどう》していた客。
 中堂寺の町筋へ来ると、その晩は残《のこ》んの月が鮮かでありました。が、天地は屋の棟が下るほどの熟睡の境から、まだ覚めきってはいない。一貫町から松原通りへ出るあたりの町角に
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