気がある。関ヶ原ではまんまと大御所を気取りそこねたが、一向ひるまない。今日はまた、ここでこんな因縁話を聞いてみると、ほんとうに身につまされる。ことに自分と同じ宗旨の大先達であってみると、今日このお墓参りをしたということが、何かのお引合せである。今いう前世というやつのお節介に相違ない。ことに世間の奴等がこれほどの大先達を冷遇して、死んだあとの塔をまで、あちら向きにしてしまうなどとは、不人情と言おうか、冷酷非道と言おうか、言語道断のふるまいである。今日、その流れを汲む道庵がここへ来たからには百人力。
 ことに、芝居道の大策士たる女将軍が後ろに控えていて、そのまた後ろには、それは貧乏神とは全く対蹠的《たいせきてき》な大財閥が一人控えている。二人を脅迫して、うんと金を出させて、死せる不遇なる大先輩のために大々的な追善供養をするんだ――と道庵の心中はいきり立っているのを、住職はそこまでは見破ることができません。

         三十九

 道庵先生は、不日この地に於て盛大なる「貧乏祭」を催し、亡き安然大徳に追善供養すると同時に、この地方の有志をアッと言わせてやろうという野心に駆《か》られつつ、裏山をあてどもなく散歩し、程よきところで一瓢《いっぴょう》を傾けつつ、いいかげんに遊んで、やがてまた小町塚の庵《いおり》へ戻って来ました。
 道庵が、小町塚の庵へいい機嫌で立戻って見ると、意外にも来客が一人あって、留守の間に座に通って、すまし込んで控えておりました。
「やあ」
「やあ」
 相見て、おたがいに呆《あき》れたのは、これはたしかに相当熟した旧知の間柄であることがわかる。留守中の来客というのは、年配もほぼ道庵先生とおっつかっつであって、道庵より少し背は低いが、よく肥って、人品も悪くない一人の老紳士でありました。
「健斎君」
「道庵君」
「いや、どうも暫く」
「全く思いがけないよ」
「こんにちは」
「こんにちは」
 二人とも意外意外で、立ったなり、坐ったなりで、珍妙な挨拶を取交しました。
 これだけの名乗りによると、一方が道庵君であることは先刻わかっているが、留守中の来客というのが健斎君であることが同時にわかりました。しかし健斎君といっても、道庵にはわかっているが、他の者にはわからない。この作中に於ては初見参の名前ですから……だが、戸籍を洗ってみると、少しも怪しい者ではない。このあたり、あまり遠くないところに住んでいる、やはり道庵の同業者の一人であることが、名前から言っても、言語挙動から言っても、充分に受取れる。
「健斎君、君のところは、この近辺だったかいねえ」
「山城の田辺《たなべ》だよ」
「山城の田辺というと、どっちに当るかなあ」
「伏見の先の方なんだ」
「そうか。そうしてまた、どうして道庵がここにとぐろを捲いているということがわかったのだい」
「いや、それは、思わぬところで耳に入れたものだから、とりあえずやって来て見ると、君は留守だとのことだが、座敷の模様を見ると、あまり遠出をしたようでもないから、そのうち戻るだろうと、こうして待っていたところだ」
「よく待っていてくれた、なんにしても、聖堂以来の思いがけない対面で嬉しい、早速いっぱいやろう」
「ははあ、君は相変らず飲むな、僕はあれ以来、禁酒だよ」
「そいつは惜しいな、玉の盃《さかずき》、底なきが如しだあ。まあ、なんでもいいや、くつろぎ給え、聖堂以来の旧知、遠方より来《きた》る、またたのしからずや」
「遠方より来るは、こっちの言い分だ、君が遥々《はるばる》江戸から来てくれたんだから、これから僕が大いに飲ませるよ」
「有難え――持つべきものは友人だ」
 二人ともに、非常に砕けている。その交際ぶりを見ると、昨日や今日の間柄ではない。いい年をした二人が、全く若やいだ書生気分になってはしゃぎ出したのは、つまり、二人は書生時代に、江戸に於ける学問友達であったのです。江戸在学の間、二人は盛んに交際したものであるが、一方は江戸に留まって十八文の名、天下(?)に遍《あまね》く、一方は郷里なる山城田辺に引込んで、先祖代々の医業を継承している。その間は音信不通であったのだが、会ってみると、急に時代が三四十年も逆戻りをして、牛肉を突っついた昔に返ってしまうのも道理です。
「へえ、どうして君は、僕がここにわだかまっているということがわかったんだね」
 道庵が、どっかりと坐り込んで、再び念を押すと、健斎が、
「不思議なところで聞いて来たよ、この上の大谷風呂で、君がここへ来ているということを、はからずも耳に入れたものだから、早速かけつけて来たのだ」
「大谷風呂で聞いたって、大谷風呂の誰に聞いたんだい」
「それが妙な因縁でな、順序を話すと、こうなんだよ――大谷風呂に、甲州の有名な財閥で、藤原の伊太夫というのがいる」
「知ってる、僕も名前だけは大いに聞いている、それから最近、お角という奴が、妙に胡麻《ごま》をすっていることも知っている」
 お角という奴が、胡麻をするかすらないか、そんなことはよけいなことだが、とにかく、藤原の伊太夫には相当|知音《ちいん》の間柄と見える。その点を健斎が説明して言うには、
「その藤原の伊太夫というのは、親父《おやじ》の代からの懇意で、出府の前にはよく往来したものだが、その伊太夫が今度、上方へやって来て、大谷風呂に逗留しているのだ」
「そこへ、君がまた胡麻すりに来たのか」
「よせやい、おれはこう見えたって、財閥に胡麻をするひまはないんだ、ただ、その旧知の縁によって、伊太夫から招かれたんだ。ただ招かれたんでは、そう安々と出て来るわけにはいかないが、旅中、同行の中に急病者が出来たから、枉《ま》げて都合して来て見てくれないかという急の使だから、早速やって来てみたところなのだ」
 健斎が、こう言ったところを以て見ると、ますます同業者ということがわかる。同時に健斎の家は、田辺でも代々旧家の方で、相当の貫禄があるのだから、伊太夫に招かれたからと言って、そう安々とは出て来られないはずだが、病人ありと聞いては、職業柄、猶予はできないで、駈けつけて来たというのは、聞える道理だが、そのくらいなら、ナゼ道庵に頼まない! という不服が、道庵の胸三寸に、ちょっと、つむじを捲かせました。そうして不服を包んでいる道庵でないから、忽《たちま》ちにムキ出してしまって、
「なに、伊太夫に急病人が出来たから、わざわざ田辺まで君を招きに行ったのか。人をばかにしていやがら、つい端近《はしぢか》に、この道庵というものが控えているのを知りながら、ほかへ使をやるなんて、胡麻すりのお角もお角じゃねえか」
とこう言いました。道庵の気象を呑込んでいる健斎だから、そんな不服は深くは取上げない。
「いや、それには何か特別の事情があるらしいのでね、近所の医者では都合が悪かったのだろう、実は普通の病人ではないのだ、水死人なのだ、水に溺《おぼ》れた人を、伊太夫殿が湖水から掬《すく》い上げて来て、それを一室に匿《かく》まい、治療をさせようという次第で、急に僕のことを思い出して使を立てたものらしい」
「ははあ、あいつら、竹生島へ参詣をかこつけて、デモの避難を試みたそうだが、では、その途中、水死人を拾い上げでもして来たものだろう」
「心中者らしいのだ」
「心中者――今時、洒落《しゃれ》てやがるな」
「でもまあ、助かったから功徳《くどく》というものさ」
 二人、会話をしているうちに、婆やが酒を運ぶ、茶菓を運ぶ。
 それが話のきっかけになって、健斎は、どうしても道庵を田辺へ引っぱって行くと言ってきかない。
「田辺なんてところに、何かいいものがあるのかい」
「有るとも、大有りさ、一休和尚の寺がある」
「一休! 一休と聞いちゃ、聞きのがせねえよ」
と道庵が、いささかはずみました。山城の国、綴喜郡《つづきごおり》、田辺の里に、一休和尚の旧蹟|酬恩庵《しゅうおんあん》があることの説明を、健斎老が道庵先生に説いて聞かせた上、どうしても、これから道庵先生を引っぱって行って、大いに上方酒《かみがたざけ》を飲ませなければならぬ、と言い出したものですから、暫く思案した道庵が、忽ち同意してしまいました。
 先に言うが如く、道庵が空虚を感じながら、ここを動けない理由の一つとしては、孤立無援で、味方のない敵地へ乗込むということの危険を予想したからである。ところが、山城生れの生粋《きっすい》の土地っ子で根の生えたやつが、自分の味方についた。これは切っても切れない書生時代からの同学だから、どう間違っても裏切りのおそれはない。のみならず、家も旧家で、相当豊かな暮らしをしていることがわかる。道庵に一月や二月、呑ませたからといって身上にさわる家でないこともよくわかる。且つまた、職務の暇々には、自分も興味を以て畿内の名所旧蹟を歴遊してもよいということだから、こうなってみると、あえて米友やお角をたよりにする必要はない。そういうのを頼りにして出かけるよりは、この方が一層、利《き》き目《め》があると思いました。
 道庵がそう鑑定したものですから、一も二もなく健斎の招待に応ずることになりました。もうこうなってみると、本草学の研究も、貧乏祭の計画も打忘れてしまって、いざ出直しの用意にとりかかるという気早さです。

         四十

 大谷風呂の別の一間には、屏風《びょうぶ》が立て廻されて、この外に、一人のお医者さんと、女の人とがいろいろと会談をしています。
 そのお医者さんというのは、さきほどのあの中川健斎老で、もう一人の女の人というのは、ほかならぬお角さんであります。
 屏風の中で、すやすやと眠っていたらしい病人が、やっと眼がさめた様子を見計らって、外からお角さんが言葉をかけました、
「お目ざめになりましたか」
「はい」
 お角さんが、屏風をちょっと押しやると、そこで枕についていたのは、やっぱり女の人であります。枕にかかる洗い髪は、まだ若い緑の黒髪がたっぷりしていました。
 そうすると健斎老が、これは無言で膝行《いざ》り寄り、患者の枕許へ手を入れて、しずかに取り上げた小腕を見ると細くて白い。
「ねえ、お雪様」
と、お医者さんに脈を見せて置いて、これも一膝進ませたお角さん。
 枕に親しんでいるのはお雪ちゃんであります。お角さんは、お雪ちゃんを呼ぶに、お雪ちゃんともお雪さんとも言わない、お雪様と本格扱いです。
「はい」
「先生が、わざわざ田辺からおいで下さいまして、もうすっかり、こっちのものだと太鼓判をお捺《お》しになりましたから、御安心なさいませよ」
「はい」
「そうしてね、お雪様、ここは閑静で、いつまで保養をなさっていてもかまいませんが、何を言うにも宿屋のことですから、行届き兼ねます、あなた様は、大阪へ帰りたい帰りたいとおっしゃいますが、いっそ、暫くこの先生のお宅に御厄介になって、それから充分おたっしゃになってから、大阪の方へお帰りになるようになさってはどうですか」
「はい」
 何を言っても、はいはいと逆らわない。逆らわないだけたより[#「たより」に傍点]のないような心持もする。その時、脈を取り終った健斎老が、
「もうほとんど平脈、危険のおそれ更になし、どうです、今このおかみさんがおっしゃる通り、僕のところへおいでなさい、綴喜郡の田辺というところだ、京都から見るとずっと田舎《いなか》だが、空気もいいですよ、小高い山の上に別荘がある、そこで充分に保養なさい、健康が全く回復してから大阪へ送って上げますよ」
「はい、有難うございます」
 素直に納得するのを、お角さんがまた傍らから力をつけて、
「そうなさいませよ、万事、少しも心配はいりません、あとのことも、先のことも、すっかりいいようにして上げてありますから」
「有難うございます」
「それから、もう一つ心強いことはね、お雪様、あなたも御承知のあの長者町の道庵先生が御一緒に参りますから、安心の上にも安心でございますよ」
「あの、道庵先生が――」
 ここで、お雪ちゃんがはじめて、「はい」と「有難う」との単語のほかに、些少《さしょう》ながら
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