らです。かくて、ともかくも、神尾主膳が殿様芸ではなく、不朽――というほどでなくとも、著作の真意義に触れるような心の行き方に進みつつあるのも、不思議の一つでないということはありません。
 根岸の三ツ眼屋敷で、今日も、その著述の筆に耽《ふけ》っている。彼の著作は一種の生立ちの記ですが、書出しは祖先の三河時代の功業から起っている。そこに多くの自負があり、懐古が現われて来るのですが、同時に自らの現状との比較心が起って来ると、いよいよ平らかならざるものがある。それが激し来《きた》って、ついつい筆端に油の乗るようになる。さらさらと筆を走らせて、雁皮薄葉《がんぴうすよう》の何枚かを書きすまして、ホッと一息入れているところへ訪《おとな》うものがありました。
 シルクのお絹でもなく、芸娼院の鐚《びた》でもないが、神尾のところへ来るくらいのもので、左様に賢人君子ばかりは来ない。いずれも先日の悪食会《あくじきかい》の同人でした。
「何を書いているのだ」
「出鱈目《でたらめ》の思い出日記を書いているのだ」
「つれづれなるままに、日ぐらし硯《すずり》というわけかな」
「いや、閑《ひま》にまかせて自分の一代記を書
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