いう頼みの客に対しては、易者の玄関番としての日頃の商売柄、うまく扱ってなだめて帰すことには慣れているはずだ。お銀様はこちらにあって、そのことを心恃《こころだの》みにしていると、しばらくあって、畳ざわりの音が軽いながら入乱れて、どやどやと、この座敷めがけて続いて来る。
「おや――」
と思っているうちに、隔ての襖がサラリとあいて、次の間に手をつかえているのは案内の婆やと、その後ろの暗がりに白く浮いて見えるのは、たしかに若い男女の者の二人。
おやおや、たのみ甲斐《がい》もない、うまく扱って帰してしまってくれるとばっかり思っていたのに、その頼みきった婆やが、こちらの一応の内意も聞くことをせずに、先に立って引きつれて来てしまったのでは話にならないではないか。
だが、つれて来てしまったものは仕方がない、女だてらに声を荒らげて叱り帰すわけにもゆくまいではないか、お銀様も呆《あき》れて襖の向うを見渡していると、白く浮いた二人の男女のうちの一人が、
「お初《はつ》にお目にかかりまする、わたくしが真三郎でござります」
「わたくしは豊と申しまする」
許されない先に入り来《きた》った男女の者は、問われない先に、自分の名を名乗ってしまいました。
十四
「こちらへお入りなさい」
名乗りまでしかけて来られてみると、お銀様もぜひなく、こちらへ招じ入れないわけにはゆきません。招ぜられて二人は、辞することなく、するすると座敷へ通って程よく並んだと見ると、もう案内の婆やの姿は掻《か》き消されてしまって、行燈《あんどん》の下に、しょんぼりと坐っている男女の姿のみを見るのであります。
「夜分、こんなにおそく、恐れ入りましてございますが、七ツの鐘が六つ鳴りまして、あとのもう一つがこの世の聞納めの切ない末期《まつご》に立到りました故に、どうでもお訪ねを致さねば済まないことになりまして」
二人はこう言って、行燈の下に、お銀様の前に向って、さめざめと泣くのでありました。
「まあ、何はともあれ、心を安めなくてはなりません、わたしで御相談に乗れますことか、どうか、そのことはわかりませんが、せっかくのことに、お話を伺うだけは伺って置きましょう」
お銀様はこう、二人の気休めに言います。二人は、なげきのうちにもよろこびました。
「御親切のお言葉、何よりの力でございます、そうして、こんなに夜更けて推参を致しましたのは、二人の狭い胸では、どうしても理解の届かないものがございますので、あらたかな御庵主様の御易面《ごえきめん》から見て、御判断を賜わりたいのでございます」
二人が、また声を合わせてかく言う。そこでお銀様が、ははあ、ではこの男女は、わたしを女易者だと信じてやって来たのだな、若い分別の二人の狭い胸では解釈のしきれない迷路に立って、易者の門を叩くということは有りそうなことだ、だが、戸惑いにも程があるという気位になって、お銀様が夢の中にも笑止の思いを致しました。
「わたしには、易はわかりません、易によって判断などは思いもよらないことで、本来、易というものは、人間の身の上判断をするように出来ている文字ではないのです」
とお銀様の言うことは、理に落ちているんだが、二人はそういう理解を聞きに来たものではないのです。
「お聞き下さいませ、わたくしたち二人の者の身の上と申しまするのは……」
ここで二人の身の上話を話し出されてはたまらない、というような気分にお銀様が促されまして、
「お身の上をお聞き申すには及びませぬ、現在のあなた方の立場と、本心の暗示とを承ればそれでよろしいのです」
お銀様にこう言われて、若い男女はたしなめられでもしたように感じたと見えて、
「恐れ入りました、現在のわたしたち二人は、死ぬよりほかに道のない二人でございます、ねえ、豊さん、そうではありませんか」
「あい、わたしは、お前を生かして上げたいけれども、こうなっては、お前の心にまかせるほかはありませぬ」
と女から言われて、男はかえって勇み立ち、
「嬉しい!」
それを女はまたさしとめて、
「まあ、待って下さい」
「いまさら待てとは」
「ねえ、真さん、死ぬと心がきまったら、心静かに落着いて、もう一ぺん考え直してみようではありませんか」
「ああ、お前は、わたしと一緒に死ぬと誓いを立てながら、その口の下から、もうあんなことを言う」
「いいえ、死ぬのは、いつでも死ねますから、死ぬ前に申し残したいことはないか、それをもう一ぺん、思い返して下さい」
「そういう心の隙間《すきま》が、もうわたしは怨《うら》みです、申し残したいことがあれば、どうなるのですか、わたしはもう、この世に於ての未練は少しもありませぬ、片時《かたとき》も早く死出の旅路に出たい」
「それでも、もし、思い残したことが一つでもあっては、
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