、夢に入り来るところの人は小町でありました。最初の印象の壇の上の、しょうづかの婆さんに紛らわしい関寺小町《せきでらこまち》が、壇の上から徐《おもむ》ろに下りて来ました。
「どうです、一枚お書きなさいな、あなたもあのくらいに書ける手じゃありませんか、書いてごらんなさいましな」
 自分の片膝に持添えていた短冊と、右の手に七三に下向きに持っていた筆を取添えて、お銀様の前へ突きつけるのであります。そうして、あなたもあのくらいに書ける手じゃありませんか、とそそのかして、ふいと床の間を振向いたところには、やはり夜前、つくづくと見て、心憎さを感じたところの懐紙風のかけものが、そのまままざまざと浮き出している。
[#ここから2字下げ]
花のいろは
 うつりにけりな
   いたつらに
  わか身世にふる
    なかめせしまに
[#ここで字下げ終わり]
 そう言われると、お銀様にも軽快な競争心といったようなものが動きそめたと見えて、関寺小町のつきつけた筆と色紙《しきし》とに、手をのべて受取ると、いつのまにか受身が受けられるような立場となって、関寺小町の姿は消えたが、「花の色は」の大懐紙の前に、美しい有髪《うはつ》の尼さんが一人、綸子《りんず》の着物に色袈裟《いろげさ》をかけて、経机に向って、いま卒都婆小町《そとばこまち》が授けた短冊に向って歌を案じている。気品も充分だし、尼さんとしては艶色《えんしょく》したたるばかりと見られるばかりであります。
 お銀様は夢のうちにも、その尼さんの姿を、やはり心憎いものだと見ました。どこの何という人か知らないが、その美色はとにかく、気品としては、尼宮様と言っても恥かしからぬ高貴の人のようにも思われるが、短冊を取り上げて、和歌を打吟じ打吟じているかと見ているうちに、その手に持つ筆が、いつしか筮竹と変じ、その膝に当てた短冊が算木となって机の上に置かれてある。
「ああ、前住居の女易者――」
 むらむらと、そんなような気分になると同時に、主観と、客観とが、お銀様の夢の中で混合してしまって、夢を見ているのが自分でなくなって、夢に見られているのが自分でもあるように混化してしまいました。
 お銀様自身が、算木筮竹を持って思案する身になってみると、眼前に現われて、しきりに我を悩ますものは、やはり前夜、これにぶっつかって悩まされた易経の中の卦画《けかく》と、その難解の文章でありました。
 易者としてのお銀様は、算木筮竹をもって吉凶と未来とを占《うらな》っているのではないのです。
 この難解の文字を打砕かんとして苦闘をつづけているのですが、こればっかりは現実で歯が立たなかったように、夢になっても歯が立ちません。
 そうして、現実の時に反抗したと同様の弾力を以て、夢で易経と取組んで、これに悩まされている自分を如何ともすることができません。
 その時、庵外の夜に人のおとなうものがあって、ホトホトと柴折戸《しおりど》を打叩いている。
 はて、深夜にここまで自分を訪ねて来る人はないはずだ、あるにしても、昨晩からここに宿を求め得たということは、自分も予期してはいなかったし、ここへ着いてはじめて不破の関守氏の肝煎《きもい》りの結果なのだから、いずれのところからも、深夜に使者の立つ心当りはないのです。取合わないがよろしいと、お銀様も思案をきめまして、そのまま、また卦面《けめん》に眼を落していると、
「もしもし、女易者様のお住居《すまい》は、こちら様でございましたか、夜分、まことに恐れ入りますが、思案に余りましたことがございまして、お伺い致しました」
 外でするのは、まだ若々しい男の声に相違ないが、その声音《こわね》によって見ると、いかにもしおらしい、死出の旅からでもさまよい出して来たもののような、すさまじさが籠《こも》るので、お銀様の心も妙にめいりました。だが、滅多に返事を与うべきものではない。そこで、返事がないことを、外ではもどかしがっていると見えて、
「もし、後生一生のお頼みでございます、人の魂二つが、生きようか、死のうか、迷い抜いての上のお訪ねでございます、御庵主様にお願いがあって打ちつれて参りました」
 そう言うのは、こんどは、うら若い女の声でしたから、お銀様の胸が安くありません。
 前の声は、まだ若い男の声で、こんどのは同じほどの女の声。その世にも哀れに打叩く声音というものは、全く血を吐くような切羽《せっぱ》のうめきがあることを、聞きのがすわけにはゆきません。
 それでもお銀様は、なおなんらの応対の返事を与えないでおりましたが、お銀様自身よりも、たまり兼ねたものは別室の婆やでありまして、
「どなた様ですか――何の御用でござりましたか知ら」
と言って、起き上った様子です。
 婆やが立ってくれれば、何とか取仕切って帰してしまうだろう。こう
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