いると、鐚《びた》はいよいよいい気になり、
「このお刺身の大盤振舞がスミますてえと、その次には、もう一つ、あっ! と言わせる趣向が秘めてあるんでがんして……」
 それを大得意に弁じ立てましたのを聞いていると――
「なんしろ、こういう険悪な時代でげすから、つとめて人心を和《やわ》らげるように、和らげるようにと楫《かじ》を取って行かなければならないんでげして、強いばかりが取柄ではがあせん、つまり毛唐に対しても、日本にはこのくらいの芸術があるてえところを、見せてやりてえのが芸娼院の本意でげすよって、この次には日本の文学をひとつ、海外進出てえ方面にウンと馬力をかけてみようてえんでげすが、万葉古今となりますてえと、なかなか調べが古うござんして、毛唐の頭には入りにくいんでげすから、まず小説の方からはじめるてのが、わかりがよくてよろしかろうと思うんでげすが、いかがなもので」
「まあ、何でもいいようにやってみろ」
「まず御承認の、その小説という段になりますると、まず長篇大作というところから見廻しまするてえと……日本に於きまして、上古に紫式部の源氏物語――近代に及んで曲亭馬琴の南総里見八犬伝――未来に至りまして中里介山居士の大菩薩峠――」
 大菩薩峠も、鐚の口頭に上ったことを光栄としなければなるまいが、御当人はしゃあしゃあ[#「しゃあしゃあ」に傍点]としたもので、
「まず日本有数の長篇大作を、ペロに書き改めましてな、それを毛唐に読ませるように仕向けるんでげす。長篇大作が必ずしも優れたりという儀ではがあせん、中篇小篇に優れたものが多くこれ有るんでげすが、とりあえず、長篇大作をペロに(ペロとは外国語ということ)書き改めて、毛唐に見せてやる。ところで、その選択てえことになりまするてえと――」
 鐚は咳を一つして、一膝押進ませ、
「上代に於て源氏物語、近代に於て八犬伝、この二つは日本に於て、名立たる長篇大作でげして、世界にも類のないものだと承りました。尤《もっと》も未来に於きましては、大菩薩峠などというやつが出て参りまして、これは八犬伝に源氏物語を加え、これに何倍をしてもまだ足りない代物《しろもの》と聞きましたが、こんなのは化け物のようなもので、人間の仲間へは入りません、よろしく敬遠黙殺の――とりあえず、源氏物語と、八犬伝と、この二つの中から選定を致しますんでげすが、鐚はいったい馬琴が嫌いでげしてね――第一、あの忠孝仁義おれ一人といったような高慢ぶり、それから学者めかして作中で長々と談議講釈、これが鐚の虫に合いません。なお作風と致しましてからが、作意を支那の小説から、すっかり取入れましてな、例の換骨奪胎というやつで……」
 鐚が口から泡を飛ばして、また一膝乗出し、
「換骨奪胎というやつは、まあ、体《てい》のいい剽窃《ひょうせつ》なんでげしてね、向うの趣向をとって、こちらのものにする、なかなか考えたものなんでげすが、独創家のいさぎよしとするところじゃあがあせん、いやしくも創作を致す以上は、趣向も、作風も、みんな国産にしたらいいじゃあがあせんか、そうでないと、本当の日本の誇りになりません、支那人に読ませると、これはおれの国からの借物だと忽《たちま》ち笑われてしまいますからな。そこへ行きますると、紫式部の源氏物語――こいつは純国産で、スフなどは一本も入っておりません」
 鐚は、また一膝進ませ、
「これはあの優麗典雅な古今無比の名文を以て、趣向も、作風も純国産、日本人の生活そのものを描写したものでげして、尤もその生活というのが、上《うえ》つ方《かた》の生活でございまして、我等風情とは全くかけ離れた生活なんでございますが、なんしろ、一千年も昔にああいった名作が、日本人の手、しかもかよわい女子の手で出来上ったということが、断然世界に誇るべき日本の名誉ということ疑いががあせんが、何に致せ、あの通りの古雅な文章でげすから、日本人でさえ本文を読みこなしにくい。よって、あれを一応六代目の為永春水に、やわらかく書き改めさせた上で、ペロにして毛唐に見せる、こういう段取りが、すべて、岩津波の茂さんだの、島中の忠助さんというような問屋の旦那衆のお肝煎《きもいり》で、遠からず、鳴物入りで市場をあっ! と言わせようてんでげすが、どんなもので」
 今日は、神尾が頭から排斥もせず、半畳も入れず、フンフン聞き流しているのを、鐚の野郎は我が意を得たりとばかり、いよいよ図に乗って、
「殿様、御勉強あそばしませよ、殿のよき精神をこめてらっしゃる御著作なんぞも、いずれ、不肖ながら鐚が一肌ぬぎの、芸娼院へ推薦の、特別一等賞てなことで――鐚、極力運動――」
「何を言ってやがる」
 今まで黙って聞いていた神尾主膳が、この時、平手を以て、ピシャリと、無警告で、鐚の横《よこ》っ面《つら》をひっぱたきましたか
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